長野様の挨拶も終えて帰ると書記がげっそりして博之を待っている。さあ、楽しい帳簿を始めましょう。嫌だと駄々をこねる博之
長野様への挨拶を終え、道中の寺社仏閣にも一通り頭を下げて、博之が松坂へ戻ってきた頃には、
もうすっかり日が傾いていた。
紋付き袴を脱ぐ間もなく、屋敷の奥から書記の者が一人、げっそりした顔で現れた。
「旦那様」
「なんや、その顔」
「挨拶回りは楽しかったですか」
その言い方に、博之は嫌な予感がした。
「……なんや」
「今から楽しい楽しい、帳簿の時間が待っております」
博之は露骨に顔をしかめた。
「うわあ……」
「うわあ、やないです」
書記の者は、帳面の束を抱えていた。横丁ごとの売上、港の仕入れ、岩宮の収入、布団の残り、
寄進の出金、長野様への一万文、道中の寺社への銭、弁当や握り飯に使った米、味噌、魚、油。
紙の束を見るだけで、博之は肩が重くなる。
「最初の頃はな」
博之は遠い目をした。
「銭が増えたら嬉しかったんや」
「今は違うんですか」
「今は、増えたら増えたで怖いし、減ったら減ったで理由を見なあかん。人件費も家賃も、
飯も油も魚も布団も湯あみも、全部見なあかん」
博之は畳に座り込む。
「もう、どんぶり勘定でええんちゃうかと思ってる」
「それはやばいです」
書記の者は即答した。
「旦那様、散々寄進しまくってますから」
「そうやけど」
「北畠様、九鬼様、長野様。寺社仏閣。炊き出し。従業員の慰労。湯あみ。屋敷。拠点。
これ全部、どんぶりでやったら一瞬で分からなくなります」
「分かってる」
博之は頭を抱えた。
「分かってるけど、嫌なんや」
ヨイチが横から茶を持ってきて、にやにやしながら座った。
「旦那、飯作る時はあんなに細かいのに、帳簿になると急に弱いですな」
「飯は楽しい。帳簿はしんどい」
「でも、帳簿見ないと飯も作れませんよ」
「正論言うな」
書記の者も苦笑する。
「しかも、寄進しても、旦那様の運が強すぎて、銭が戻ってくるんですよ」
「それがまた困るんや」
「普通はありがたい話です」
「ありがたい。ありがたいんやけどな」
博之はなんとも言えない顔をした。
「銭が戻ってくると、また広げなあかん気がしてくるやろ」
「実際、広げてますしね」
「大きな絵を描くのは好きなんや。伊勢行こう、津行こう、港押さえよう、尾張まで行こう、
全国津々浦々や、みたいな話は楽しい」
そこで、博之は帳面を指さした。
「でも、その後にこれや。米いくら、味噌いくら、油いくら、薪いくら、人件費いくら、
布団いくら、寄進いくら。細かいところを計算せなあかん」
「それが商いです」
「知ってる」
「知ってるならやりましょう」
「嫌や」
あまりに子どものような返事に、場が笑った。
お花も奥からやってきて、静かに座った。
「旦那様、初期の者をもっと増やす必要がありますね」
「そうやな」
博之は真面目な顔に戻った。
「帳面を見られる者が足らん。字が読める、計算できる、店ごとの数字をまとめられる。
そういう者を育てなあかん」
「飯炊きや用心棒だけでは、もう回りません」
「分かっとる。俺の頭も、そろそろどうにかなりそうや」
ヨイチが笑う。
「旦那、博打よりも帳簿の方がしんどそうですな」
「博打の話すな」
「でも最近の旦那、博打より挨拶回りの方が好きでしょう」
「いやいや、挨拶回りは疲れるで」
「でも楽しそうですやん」
博之は少し黙った。
そして、ふっと笑った。
「まあ、楽しいやろ」
「ほら」
「偉い人のところ行って、飯出して、うまい言うてもらって、港やら津やらの話が広がるんやで。
そら楽しいやろ」
ヨイチも笑った。
「横で見てるだけでもめちゃくちゃ面白いっす」
「せやろ」
「ただ、帰ってきたら帳簿です」
「そこが辛い」
書記の者は、容赦なく帳面を広げた。
「前回の残高は六十万九千文です」
「そこからか……」
「そこからです」
博之は深く息を吐いた。
「まず、年末の挨拶。長野様に一万文。道中の寺社に合わせて一万文。弁当と握り飯の材料費、
運搬、人足」
「うん」
「九鬼様への挨拶分もあります。料理の材料、魚、油、卵、米、味噌、醤油少し」
「うん」
「北畠様の分もあります。親子丼、天ぷら、すり身、握り飯。五千文の挨拶も」
「うん……」
「伊勢郊外の寺と神社には五千文ずつ。あれもこの時期です」
「うん」
「あと、津道の拠点の手直し。追加寄進。弁当。周辺への飯の振る舞い」
「うん……」
博之の返事がだんだん弱くなっていく。
お花がくすりと笑った。
「旦那様、顔がどんどん暗くなっています」
「数字が怖い」
「でも、売上もあります」
書記の者が次の紙を出した。
「町場の横丁は順調です。すり身天がかなり出ています」
「お」
「港横丁はまだ大きく黒ではありませんが、魚の仕入れとすり身串の評判は上々です」
「それはよかった」
「湯あみも、年末の寄付札を出した後でも、普通に入る者がいます」
「なんでや」
「気に入ったんでしょう」
ヨイチが笑う。
「旦那、また銭が戻ってきますよ」
「言うな」
「握り飯屋も良いです。梅と紫蘇が伸びています。たくあんは安定。粗汁握りは
魚がある時だけですが、評判は良いです」
「なるほど」
「布団は残り少し。追加で欲しいという声もあります」
「もうええやろ」
「冬ですから」
博之は天井を見上げた。
「金を使ったら戻ってくる。戻ってきたらまた使う。使ったらまた戻る」
「商売が回ってるということです」
お花が言った。
「それ自体は良いことです」
「そうやな」
博之はようやく諦めたように筆を持った。
「ほな、やるか」
書記の者が少し嬉しそうに頷く。
「はい。まずは拠点別に分けましょう」
「松坂郊外、松坂町場、港、街道、津道、岩宮、布団、寄進、炊き出し、挨拶費……」
「多いな」
「多いです」
「もっと書記増やそう」
「育てましょう」
博之は筆を走らせ始めた。
数字は嫌いではない。
ただ、今の数字は重い。
一つの店の数字ではなく、二百人の暮らしと、いくつもの拠点と、これから広がる道の数字だった。
六十万九千文から、どれだけ減ったのか。
あるいは、また増えてしまったのか。
それは、これから一つずつ紙をめくって確かめるしかない。
ヨイチが茶をすすりながら言った。
「旦那、次の話題はこれですな」
「何がや」
「六十万九千文が、どうなったか」
博之は筆を止め、嫌そうに笑った。
「ほんま、怖い話やで」
だが、その顔には、ほんの少しだけ楽しそうな色もあった。




