博之45歳。2月2週目。4月の伊賀越えのために散歩の練習をするが九鬼水軍のところにつく半分の行程で挫折www
二月二週目。
各地へ出した師範たちから、次々と文が届いていた。
尾張から三河方面。
坂本から近江今津方面。
堺や紀州沿岸の様子。
大きな失敗はなく、現地で見習いや任せを育てながら、少しずつ店と荷の流れを作っているらしい。
「……うまいこと回ってるな」
博之は文を読みながら呟いた。
「良いことでしょう」
ヨイチが答える。
「うん。めっちゃ良い」
「では帳簿も見ましょう」
「それは嫌や」
「なぜですか」
「文は面白いやん。『今津で魚がどうやった』とか『三河でこれが売れた』とか。
帳簿は数字ばっかりやもん」
「帳簿ですので」
仕組み化は成功していた。
博之が逐一指示しなくても、師範が現場を見て判断する。
人を育て、必要なら小さな催しを開き、問題が起きれば文を寄越す。
その結果。
「……暇やな」
「旦那様がそういう仕組みにしたんですよ」
「分かってる」
女衆と毎回買い物へ行くわけにもいかない。
男衆の人気投票も、そう何度もやれば怒られる。
そこで博之は、四月の伊賀越えを思い出した。
「歩くか」
「はい?」
「伊賀越えするんやったら、少し足慣らしせなあかんやろ」
普段なら荷車や馬、あるいは船で移動する距離を、今日は歩いてみよう。
ちょうど九鬼水軍の者たちにも挨拶したい。
「差し入れ持って、郊外まで歩いてみるわ」
「全部?」
「全部は無理かもしれんけど」
この時点ですでに弱気だった。
供の者を数人連れ、博之は松坂を出た。
最初は機嫌がよかった。
「寒いけど、歩いたら温なるな」
「そうですね」
「これなら伊賀もいけるんちゃう?」
ところが。
しばらくすると口数が減った。
「……まだ半分?」
「半分にも届いてません」
「嘘やろ」
「本当です」
「足痛い」
「早いですよ」
さらに少し歩く。
「もうええわ」
「何がです?」
「荷車呼んで」
「旦那様!」
「今日は練習や! 本番ちゃう!」
結局、道の半分にも届かないところで博之は荷車へ乗った。
揺られながら、
「あと一月半あるから」
「本当に大丈夫ですか」
「徐々にや。今日はこれぐらいがちょうどええ」
「足慣らしというより散歩ですね」
「最初から無理したら怪我するやろ」
へらへら笑いながら、そのまま九鬼水軍のいるところへ向かった。
「おお、旦那。珍しいな」
「こんにちは」
「歩いてきたんか?」
「途中まで」
「途中?」
「半分行く前に諦めて荷車乗りました」
「何しに来たんや」
「暇やったんです」
九鬼の者たちが笑う。
「四月に伊賀越えしようと思ってるんで、今から歩く練習を」
「旦那、それ大丈夫か?」
「まだ一月半ありますから」
「一月半で山道歩けるようになるんか?」
「そこは気合いで」
「普段から歩け」
「それは嫌です」
「どっちやねん」
差し入れを広げ、皆で飯を食いながら近況を話した。
「最近ほんま暇なんですよ」
「八億文も商いしてる大旦那が?」
「規模がでかなったからこそです」
博之は焼き物をつまむ。
「わしが死んでも回るようにせなあかんと思って、人に任せられるようにしたんですわ」
「ええことやん」
「ええんですけどね」
師範に権限を渡す。
任せを育てる。
帳場を整える。
拠点同士で連絡させる。
「そしたら、ほんまにわしがおらんでも回り始めた」
「最高やないか」
「暇になるんですよ」
「知らんがな」
九鬼の者たちが笑う。
「暇すぎて女衆に物買うたり、男衆の人気投票したりしてます」
「何してんねん」
「自分でもそう思います」
「飯のこと考えてくれたらええのにな、旦那は」
「それは師範が考えてくれてるんですわ」
「完全に仕事なくなっとるやないか」
「いや、考えなあかん時は考えますよ!」
博之は慌てて言った。
「北伊勢みたいな話になったら考えます。道作るとか、どこへ商い伸ばすとか」
「ほな今は?」
「暇」
「やっぱり暇なんやん」
また笑いが起きた。
博之も笑いながら、ふと思い出す。
「あ、そうそう。ついで言うたらなんですけど」
「嫌な言い方やな」
「今度、岡崎方面に荷出すこと増えるでしょう?」
「まあ、様子見ながらな」
「その時、港の話とか聞かせてくださいよ」
「何を?」
「どこで水取れるとか、荷下ろしやすいとか、土地の人間がどうとか」
九鬼の者がじっと博之を見る。
「旦那」
「はい」
「さっき暇や言うてたよな」
「言いました」
「もう話でかなってるぞ」
「いやいや、これは情報収集です」
「暇になったら岡崎まで商売の話考えるんか」
「暇やから考えられるんですよ」
「ろくでもない暇人やな」
「ひどいなあ」
博之は笑った。
仕組みを作る。
人に任せる。
自分は暇になる。
そして暇になった博之が、また新しい道を思いつく。
どうやら伊勢松坂屋にとって、一番危険なのは忙しい時ではなく。
大旦那が暇になった時なのかもしれなかった。




