博之45歳。二月一週目、春を待つ者たち。家で暇すぎて相手してもらえないから郊外の和尚と話をしに行く。奈良のお坊さんと話す。伊賀越えの話とか
二月一週目。
三河、近江、日本海側。
今年どこを伸ばすか、師範たちへ一通り指示を出してしまうと、博之は急に暇になった。
「……暇やな」
店の奥でごろごろしながら、働いている女衆へ声をかける。
「なあ」
「何です、旦那様」
「嫁が欲しい」
「そうですか」
「反応薄ない?」
「仕事中ですので」
「四十五歳の独り身が勇気を出して言うてんねんぞ」
「はいはい」
近くを通った女中の肩を軽くぽんと叩けば、
「邪魔です」
と払いのけられた。
「冷たいなあ」
「暇なら帳面見てください」
「それだけは嫌や」
誰にも相手にされない。
博之はしばらく天井を眺めていたが、やがて起き上がった。
「……相手してくれる人んとこ行こ」
「どちらへ?」
「和尚んとこ」
厨房で弁当を一つ余分に包ませ、そのままいつもの郊外の寺へ向かった。
寺へ着くと、和尚だけではなく、見覚えのない僧が数人いた。
「おや、大旦那」
「こんにちは。寒いですねえ」
「寒い時によう来なさった」
「そっちこそ奈良から?」
聞けば、奈良から来ている僧だという。
「こんな時期に伊賀越えしてきたんです?」
「まさか」
一人が笑った。
「秋頃にこちらへ来ましてな。春になるまでこっちで修行と手伝いです」
「ああ、ほな私と一緒や」
「何がです?」
「伊賀越えしよう思てんねんけど、春にせえ言われて」
「ああ、それは正解です」
即答だった。
「冬の伊賀越えは、ほんまにきついですよ」
「やっぱり?」
「寒い、日が短い、足場が悪い。好き好んで行く道ちゃいます」
「和尚にも同じこと言われたわ」
「四月ぐらいでええです」
「ほな春まで待つわ」
博之は持ってきた弁当を広げた。
冷めても食べやすい煮物と焼き魚、握り飯。
皆で囲みながら話をしているうち、博之は以前から気になっていたことを思い出した。
「そういや、比叡山の方でいろいろあって、奈良で引き取ってもろた若いお坊さんら、おったやろ」
「おります」
「あの子ら、今どうしてるん?」
奈良の僧は少し考えてから答えた。
「よう働いてますよ」
「改心した?」
「……改心というより」
僧は苦笑する。
「比叡山へ戻されたくない、という方が強いですな」
「ああ」
「ここで必要とされたい。そのために何でもやります、という感じです」
最初の頃は、何を言われても怯えていた。
間違えれば戻されるのではないか。
役に立たなければ追い出されるのではないか。
「炊き出しでも薪割りでも、人一倍やります」
「それ、しんどいやろな」
「最近は少しずつ落ち着いてきました」
経を覚える。
寺の掃除をする。
炊き出しを手伝う。
子供へ簡単な読み書きを教える。
「僧としてちゃんとやっていけるなら、こちらから追い出す理由もありません」
「それでええんちゃうかな」
博之は握り飯を一口食べた。
「比叡山の方は、まだ時間かかるやろな」
「かかるでしょうな」
奈良の僧たちも、比叡山の内情を聞くにつれ複雑な顔をしていた。
「奈良の寺も偉そうなところはありますけどな」
「ありますよね」
「否定せんのですね」
「そらまあ」
笑いが起きる。
「ただ、聞いている限りでは、あちらは随分と色々積もっていたようで」
「時代なんかなあ」
「それもあるでしょう」
博之は頷いた。
「うちも、ちょっとずつ寄進したり飯出したりして、関係作っていくしかないと思ってる」
「急には変わりませんよ」
「上の方ほど動き鈍いしな」
「それは寺に限りません」
「商売も一緒や」
一方で、奈良方面との関係は随分と深くなった。
炊き出し。
料理人との交流。
寺同士の行き来。
伊勢への修行。
「ここのお寺みたいな、普通の寺を見るのも勉強になります」
奈良の僧が言う。
「大きな寺みたいに、黙ってても寄進が集まるわけではない」
「薪一つ買うのも大変やもんな」
「そういう暮らしを若い者に見せるのは大事です」
そして伊賀越えも、その修行の一つになっている。
「若い者には、一度ぐらい自分の足で越えてもらう」
「修行の一環みたいやな」
「そこまでではありません」
「絶対きついやん」
「きついですよ」
また笑いが起きた。
「帰りは京都回りでも構わんのです。大事なのは、一度経験することですから」
「なるほどなあ」
「今は伊勢松坂屋さんが別の道も整えてくれました。だからこそ選べるんです」
一つの道だけに頼れば、そこが塞がった時に何もできなくなる。
比叡山の一件は、寺の者たちにもそれを思い知らせていた。
「私も春に一回行ってみるわ」
「一回ですか?」
「一回」
「二回目は?」
「行かへんと思う」
「早いですな」
「だって、しんどいんやろ?」
「しんどいです」
「ほな一回で十分や」
和尚が笑う。
「でも、大旦那が来たら伊賀の者は喜びますよ」
「そう言われると行かなしゃあないな」
「春先、ええ思い出になるでしょう」
「そう思ってます」
博之は少し笑った。
「去年は首切られかけたり、比叡山で揉めたりしたからな。今年は山越えて焼き物見て、
飯食って帰るぐらいの思い出がええ」
「それで済みますかな」
「なんで皆それ言うん?」
「旦那様ですから」
寺の中に笑い声が響いた。
春を待つ奈良の僧たち。
春になったら伊賀へ行こうとしている博之。
それぞれ理由は違っても、寒い季節を越えた先に、新しい道を見ていた。
「まあ四月やな」
「はい」
「一回だけな」
「はいはい」
「ほんまに一回やで」
「帰ってきてから言ってください」
博之は少し嫌そうな顔をしながら、もう一つ握り飯へ手を伸ばした。




