博之45歳。二月一週目、東と北へ種をまく
二月一週目の後半。
伊勢から松阪へ戻った博之は、今度は各地へ向かう師範たちを集めていた。
「今年はな、いきなり店をでかくするんやなくて、拠点になりそうな場所を探してほしいねん」
「まず三河ですか」
「そう。知多半島から向こうへ渡って、安城、それから岡崎辺りまで」
博之は地図の上を指でなぞった。
「いきなり大店はいらん。飯が出せて、荷が置けて、人が寝られて、できれば市が近い。
そんなところを探して」
「売り物はどうします?」
「最初は様子見でええよ」
京都で仕入れた小物。
伊勢の土産物や名産。
信楽焼の器。
手拭い、櫛、筆、小さな焼き物。
「高いもん大量に持っていって売れへんかったら泣くやろ」
「旦那様でも泣きます?」
「銭より荷物戻すのが面倒くさいから泣く」
笑いが起きた。
「少しずつ持っていって、何に人が食いつくか見る。それで三河から持って帰れそうな物も探して」
「帰り荷ですね」
「そう。行きだけ商売して帰り空荷は嫌や」
岡崎まで届けば、商いの空気も尾張とは変わる。
織田の領内で通じたやり方が、そのまま三河でも通じるとは限らない。
「あと、向こう行ったら伊勢松坂屋が織田の先兵みたいに見られんようにな」
「信長公とあれだけ仲良うしてて、それ言います?」
「せやから言うてんねん」
博之は苦笑した。
「商売は商売や。現地の人から買う。雇う。飯食う。銭落とす。それを最初からちゃんと見せる」
「まず信用ですか」
「信用ないと店なんか置かれへんよ」
次に博之は地図を北へ動かした。
「ほんで、比叡山の方」
坂本。
堅田。
高島。
今津。
その先には塩津、さらに敦賀。
「こっちはもっとゆっくりでええ」
「敦賀まで、では?」
「最終的にはな」
「旦那様、前は敦賀まで行け言うてましたよね」
「言うたけど、今冬やぞ」
博之が笑う。
「まず今津くらいまで頑張って」
「急に現実的になりましたね」
「寒いもん」
坂本から先、いきなり太い商いの線を作る必要はない。
小さな飯場。
寺との付き合い。
荷を一晩置ける場所。
五人、十人が食べられる程度の拠点。
「点でええねん」
博之は何度もそう言った。
「点を置いて、そこに人が寄って、荷が通るようになったら少し太くする。それを順番にやったら、
いつか敦賀までつながる」
「いつまでに?」
「決めへん」
「珍しい」
「無理に期限切って潰したら意味ないやろ」
北の道については、浅井や朝倉との関係もある。
比叡山との一件で縁はできたが、それだけで好き勝手に商売できるわけではない。
「土地ごとにちゃんと挨拶して。寺が強いなら寺。商人が強いなら商人。国人衆がおるなら
そこにも話通す」
「全部ですか」
「全部できたらな」
「できなかったら?」
「報告して」
「それだけ?」
「それだけ」
師範たちが顔を見合わせた。
博之は笑った。
「お前らに完璧求めてへんって」
むしろ博之が重く見ているのは、人だった。
「店増やすより、見習い増やして」
「見習いですか」
「うん。ほんで見習いの中から任せを作る」
「師範代は?」
「焦らんでええ」
師範代まで育てようとすれば、料理の腕だけでは足りない。
人を見る力。
後輩を教える力。
店を回す力。
土地の者と喧嘩せず話をまとめる力。
「味がばらつくのが一番怖いからな」
伊勢松坂屋の看板を掲げた店で、昨日はうまかったのに今日はまずい。
それでは信用が落ちる。
「新しい料理考えるより、まず同じもん同じように出せるようにして」
「旦那様が珍しく地味なこと言ってますね」
「地味やけど大事やで」
さらに博之は、催しについても念を押した。
「月一回でもええから、何かやって」
「料理勝負ですか?」
「料理勝負でもええ。小さい市でも、子供向けの飯でも、お楽しみ袋みたいなんでもええ」
「何のために?」
「情報」
即答だった。
「催しやったら人来るやろ。人来たら喋るやろ」
米が高くなった。
魚が取れた。
どこかの橋が壊れた。
近くで揉め事がある。
旅人が増えた。
「そういう生きた話、店で拾ってほしいねん」
「料理人の仕事、どんどん増えてません?」
「師範やからな」
「万能職みたいになってますよ」
「せやから全部一人でやるなって。見習い作って、任せ作って、人に振る」
師範の一人がため息をついた。
「旦那様、それを育てるのが一番時間かかるんですよ」
「知ってる」
「本当に?」
「俺もここまで何年かかったと思ってんねん」
少しだけ、場が静かになった。
初めから八億文があったわけではない。
一軒の飯場から。
一人ずつ料理人を増やし。
失敗し。
怒られ。
客に食わせ。
少しずつ今の伊勢松坂屋になった。
「せやから急がんでええ」
博之は言った。
「三河は、安城と岡崎までまず見てこい。北は今津まで行けたら十分。敦賀はその先や」
「はい」
「人育てて、味安定させて、催し続けて、情報拾う」
「はい」
「面白いもん見つけたら持って帰って」
「最後それですか」
「一番大事やろ」
師範たちが笑った。
東には三河。
北には近江から敦賀。
今の伊勢松坂屋に必要なのは、大きな旗でも城でもなかった。
小さな店を置くこと。
人を育てること。
同じ味を出すこと。
そして土地の声を聞き続けること。
「太い道は、後から勝手にできるねん」
博之は地図を見ながら言った。
「最初は細くてええ。切れへんかったら、それで勝ちや」
その一言を胸に、師範たちはそれぞれの道へ向かう準備を始めた。




