博之45才1月3週目。100万文で蟹江をまとめる。北伊勢問題はいったんまとまる。
蟹江の扱いだけが残ったまま、話し合いはしばらく止まっていた。
織田は、一度攻め落とした蟹江を手放したくない。
蟹江の国人衆としては、婚姻だけを理由にそのまま織田方へ入れと言われても、簡単には飲めない。
北畠も北伊勢の国人衆も、そこだけは事情が違うと分かっている。
「婚姻だけでは、ちょっと弱いですわな」
博之も腕を組んだ。
「信長公は蟹江を欲しい。蟹江側も、家まで全部潰されるんは嫌や。
ほな、もう一個、飲みやすいもん置きましょうか」
信長が博之を見る。
「何じゃ」
「私から百万文出します」
座が静かになった。
「……百万文?」
「はい」
蟹江の国人衆も思わず博之を見た。
「それを織田方へ払うのか?」
「違います」
博之はすぐ首を振った。
「蟹江側へ渡します」
「我らに?」
「はい。言うたら、ご祝儀です」
博之は地図の蟹江を指した。
「今回、織田方と婚姻を複数結んで、時間をかけて織田方へ入っていく。
それを受け入れてもらうための銭です」
「百万文……」
「使い方はある程度任せます」
例えば、蟹江に残る者なら、町や村の復興に使ってもよい。
橋を直す。
家を直す。
種籾を用意する。
領民へ飯を出す。
それによって、新しい体制になっても蟹江の暮らしは良くなった、と示すことができる。
「逆に、どうしても織田方に入るのが嫌や、いう家もあるでしょう」
「おりますな」
「そういう家は、百万文の一部を持参金みたいにして、他の北伊勢国人衆のところへ移ってもええ」
別の国人が目を丸くした。
「受け入れる側にも銭が入るわけですか」
「そういうことです」
「それなら、確かに面倒は見やすい」
人だけ突然来られても困る。
家族もいる。
郎党もいる。
食わせなければならない。
だが、ある程度まとまった銭を持って移るなら、受け入れる国人側も土地や住まいを用意しやすい。
「婚姻の祝いとして派手に使ってもええですよ」
博之は笑った。
「まあ、そんな使い方せえへんと思いますけど」
信長が呆れた顔をした。
「また銭で丸める気か」
「言い方悪いですって」
「実際そうじゃろ」
「買う、いうたら聞こえ悪いですけどね」
博之は苦笑した。
「でも、この百万文で今日の話全部まとまるんやったら、安いでしょう」
北伊勢の国人衆から声が上がる。
「いや、百万文は破格ですぞ」
「蟹江だけにそこまで出す必要あります?」
「多分ないです」
「ないんですか!」
「蟹江そのものの値段ちゃいますから」
博之はさらりと言った。
「この席を丸く収める値段です」
しばらく沈黙した後、松坂のお殿様が吹き出した。
「お花殿がおったら怒るやろな」
「ああ……」
博之も顔をしかめた。
「『旦那様、また銭で解決するんですか』って言われそう」
秀吉まで笑い出した。
「目に浮かびますな」
「帰ったら絶対言われるわ」
信長も肩を揺らす。
「それでも出すんじゃろ?」
「出しますよ」
「だから皆、お前の話を聞くんじゃ」
「何がです?」
「最後に自分の腹まで切るからじゃ」
百万文は大金だった。
だが、伊勢松坂屋なら出せる。
そして、出せるだけではない。
実際に出す。
その事実が、この場にいる者たちを少しずつ動かした。
別の北伊勢国人が、蟹江側へ声をかけた。
「これは考えてええ話やと思うぞ」
「……」
「織田方との婚姻を結ぶ。家は残る。領民の復興にも百万文使える」
「それでも納得できん者は?」
「こっちへ来たらええ」
別の国人も頷いた。
「持参金までついてくるなら、全部とは言わんが、何家かぐらい面倒見られる」
蟹江側の者たちは顔を見合わせた。
完全な勝利ではない。
だが、次に信長が本気で攻めてくれば、今度こそ家そのものを失うかもしれない。
それに比べれば、婚姻によって家を残しながら織田へ入る。
納得できない者には移る道も残す。
さらに百万文。
「……飲まざるを得ん、か」
蟹江側の年長者が、ようやく言った。
「ただし、婚姻は一つではなく、複数じゃ」
「ええでしょう」
信長が答える。
「織田の重臣筋から、縁を結べる家を選ぶ」
「今の家をすぐ取り潰すことは?」
「せん」
「将来、その子らが蟹江を継ぐ」
「それでよい」
博之がほっと息を吐いた。
「ほな、まとまりそうですね」
「お前が一番嬉しそうじゃな」
「これで荷が止まらんやん」
「結局それか」
最後に、書面が作られた。
北伊勢北部はおおむね織田の庇護。
南部は北畠の庇護。
それぞれ二割相当を納める。
街道使用料は半分を国人衆、四分の一を庇護する家、残る四分の一を街道整備や救恤へ。
蟹江については、織田重臣筋との複数の婚姻を進め、将来的に織田方へ組み込む。
伊勢松坂屋は蟹江側へ百万文を出し、復興、婚姻、移住する家の支度金などに用いる。
そして周辺勢力の力関係が大きく変わった場合には、改めて条件を協議する。
「期間は?」
「無理に三年とか五年とか決めんでええんちゃいます?」
博之が言った。
「当面これでやって、前提が変わったら皆でもう一回集まりましょう」
信長も松坂のお殿様も異論はなかった。
書状は三通。
北伊勢国人衆。
北畠。
織田。
それぞれが一通ずつ保管する。
最後の署名が終わると、誰からともなく大きな息が漏れた。
「大団円……とは言えんわな」
博之が言う。
「そら皆、ちょっとずつ不満ありますからな」
北伊勢衆が笑う。
「でも、これでやってみよう、ぐらいにはなった」
「それで十分ちゃいます?」
戦国の世に、全員が満足する答えなど、そうそうない。
少し損をする。
少し得をする。
少し腹に残るものもある。
それでも槍を持って殺し合うよりはましだと思える。
「では、これでいきましょう」
博之が言うと、皆が静かに頷いた。
信長だけが、最後に笑った。
「しかしお前、北伊勢まとめるために百万文まで出して、ほんまに領地いらんのか」
「いりませんって」
「変な奴じゃ」
「飯屋ですから」
「その飯屋が一番国境をいじっとるんじゃ!」
笑いが起きた。
蟹江の港で始まった会議は、誰かが完全に勝つ形ではなく。
それでも当面、北伊勢で大きな戦を避けるための一つの形を残して、ようやく終わろうとしていた。




