博之45才1月3週目。北伊勢の領土問題概ねまとまるが蟹江は別問題。
蟹江の港。
ひとしきり料理を食べ、場が温まったところで、ようやく北伊勢の扱いについて
本格的な話し合いが始まった。
信長は地図を前に置き、まず大枠について口を開いた。
「北伊勢の北側を織田、南側を北畠の庇護下へ置く。それは、まあ飲める」
北伊勢の国人衆たちが、わずかに肩の力を抜いた。
「境目は後で詰めればよい。昔からの縁もある。村一つ、城一つを真っ二つにするわけにも
いかんからな」
松阪のお殿様も頷く。
「北畠としても異存はない。北伊勢を全部直接抱えれば、それだけ面倒も増える」
新しく領地を持てば、年貢が増えるだけではない。
道を直し、揉め事を収め、飢饉になれば飯を用意し、戦になれば兵を置かなければならない。
「二割を納め、北畠の庇護下で動くというなら、それでよい」
「織田も同じじゃ」
信長が言った。
「ただし」
地図の一点を指した。
「蟹江は別じゃ」
空気が変わった。
「ここは棚上げじゃ」
「ええ?」
博之が嫌そうな顔をする。
「で、それを博之、お前が考えろ」
「なんで私に丸投げなんですか」
「この会そのものが伊勢松坂屋発起じゃろうが」
「発起しただけですよ」
「最後までやれ」
「そんな無茶な」
信長は蟹江を指したまま続けた。
「蟹江は一度、うちが攻めて落としておる。それを起点に休戦して今に至っとる。
織田としては、ここは欲しい」
蟹江側の国人衆が険しい顔になる。
「それでは、結局我らだけ所領を取られるではないですか!」
「怒るな」
信長の声が低くなった。
「今、この席で怒って話を壊す方がおかしい」
「しかし――」
「北伊勢全体の話は、もう伊勢松坂屋が間に入って動いとる。そのうち蟹江以外は概ね飲む、
とわしは言うとる」
信長は博之を見る。
「ここの落としどころだけ考えろ、という話じゃ」
「だから、それを私に……」
「お前なら何とかするじゃろ」
「雑やなあ」
松阪のお殿様まで笑った。
「まあ、北畠としても蟹江だけは事情が違うと思うぞ」
「ですよねえ」
博之は頭を掻いた。
「そもそも今回の仕組みって、今の力関係が大きく変わらへん前提なんですよ」
一同が博之を見る。
「北畠は、少なくとも急に伊勢から消えるような話ではないでしょう」
「まあな」
「でも織田は違う」
信長が少し笑った。
「ほう」
「例えばですよ」
博之は美濃を指した。
「美濃を丸ごと織田が取ったら、もう前提変わるでしょう」
北伊勢衆がざわつく。
「今は北伊勢を間に置いて、織田と北畠が大体睨み合える。でも織田が馬鹿みたいにでかくなったら、
その均衡自体なくなる」
「馬鹿みたいとは何じゃ」
「例えですよ」
秀吉が笑いを噛み殺していた。
「ですから文書には、周辺の勢力図が大きく変わった場合は再協議、と入れる。それでええと思います」
「うむ」
「今年明日の話ちゃいますしね。しばらくはこの形で戦を避ける」
そこまでは全員がおおむね納得した。
問題は蟹江である。
博之は腕を組んだ。
「冷静に見たらですね」
「うむ」
「蟹江の民心って、今ちょっと変なんですよ」
「どういう意味じゃ」
「一番食い込んでるの、たぶん伊勢松坂屋なんです」
蟹江側の者たちが複雑な顔をした。
「飯出した。荷を動かした。市もやった。だから住民との距離はかなり近い」
「お前が領主になればよいではないか」
「それは嫌です」
即答だった。
「で、二番手は意外と織田です」
「我らが?」
「一回攻めてますけど、その後二十五万文出してるでしょう」
「ああ」
「すまんかった、という銭ではないでしょうけど、復興に銭を出したという事実は残ってる」
博之は蟹江側を見る。
「北伊勢の国人衆が何もしてへんとは言いませんよ。人も出してるし、労力も使ってる。
ただ、住民から見て分かりやすい形で残ったものは、伊勢松坂屋と織田の方が大きい」
蟹江側も否定しきれなかった。
「それに」
博之は続ける。
「次に本気で信長公が攻めたら、蟹江は取られる可能性が高いでしょう」
場が静まった。
信長だけが、何も言わず博之を見ている。
「ほな、飲みどころとしては……婚姻ですかね」
「婚姻?」
「蟹江側の国人衆なり有力家に、織田の重臣筋から縁のある者を入れる」
博之は慎重に言った。
「婿でも嫁でもええ。で、その間に生まれた子に、将来蟹江を継がせる」
秀吉が目を細めた。
「なるほど」
「今すぐ蟹江を取り上げて織田の直轄にするんやなくて、時間かけて織田の中へ入ってもらう」
「蟹江側の家も残る」
「そうです」
「織田側も、将来的には確実に取り込める」
「そういう形なら、まだ双方飲みやすいんちゃいますか」
蟹江の国人衆は、簡単には頷かなかった。
「……結局、我らは織田へ入ることになる」
「そこはそうです」
博之もごまかさなかった。
「ただ、一回攻め落とされた他の北伊勢とは条件が違う。ここだけ完全に元通り、
いうのは多分、信長公が飲まへん」
「飲まんな」
信長が即答した。
「ほら」
「そこでわしを使うな」
「でも事実でしょう」
松坂のお殿様が苦笑する。
「妥当な線ではあると思うぞ。蟹江の家を潰さず、織田も面子を立てる」
「細かいところは、まだ詰めなあかんと思います」
博之は地図を見た。
「誰と誰を結ぶのか。領主権をいつ移すのか。今の当主の扱い。織田がどこまで口を出すのか。
そこは別の話です」
「では蟹江だけ継続協議」
「それがええでしょう」
信長が頷いた。
「それ以外は、大枠この案で詰める」
北畠側も異論はない。
北伊勢の国人衆も、完全な統一を諦めた代わりに、すぐに潰されない道を得る。
博之は大きく息を吐いた。
「ほな、ほとんど終わりですね」
信長が笑った。
「蟹江が残っとるぞ」
「だから、それ私の仕事ちゃいますって」
「もうここまでやったら同じじゃ」
「全然違います!」
秀吉が吹き出した。
「大膳之介様、もう諦めた方がええですよ」
「なんで皆、私に国境整理させるんですか」
松坂のお殿様が笑う。
「飯屋のくせに、いちばん落としどころ考えるのがうまいからや」
「褒められてる気せえへんなあ」
蟹江の港。
北伊勢全体の形は、ようやく見えてきた。
残った最後の一か所だけが、博之の前に、また新しい宿題として置かれていた。




