あいさつ回りで一息ついた後、古参が申し訳なさそうに津方面の報告にくる。やっぱりできていませんでした。博之は呆れ、今後のために紙に書き下ろす。拠点心得
九鬼方への挨拶を終えて松坂へ戻ると、博之はようやく一息ついた。
とはいえ、休めるわけではない。
採用の話、街道沿いの売上、港横丁の様子、年末の炊き出し、伊勢方面の準備。
報告は次々に入ってくる。
その中で、津方面へ出した小さな拠点について、古参の一人が少し言いにくそうに口を開いた。
「旦那、津の方なんですけど……」
「なんや」
「やっぱり、近所のお寺さんとか神社さんへの挨拶、ちゃんとできてませんでした」
博之は額に手を当てた。
「やっぱりか」
「一応、しかり飛ばしておきました」
「飛ばしたんか」
「はい。あれは店だけ作ったらええと思ってましたね」
古参は続けた。
「なので、改めて寺社仏閣へ寄進を持って行って、弁当も作って、一緒に挨拶回りしてきました」
「そうか。そこまでやったならええ」
博之はため息をついた。
「やっぱり分かってなかったか」
ヨイチが横で苦笑する。
「旦那、それは言うてあげんと分からんですよ」
「そうやな」
博之は腕を組んだ。
「なんか紙に書いた方がええな」
「紙?」
「新しく街道に店出す時とか、拠点作る時の、抜け漏れ防止の表や」
ヨイチが頷く。
「ああ、管理表みたいなやつですか」
「そうや。店を借りる、飯を仕込む、人を置く。それだけやない。近所の寺社に挨拶する。
神社に顔出す。周りの店に一言入れる。最初の半月は儲けより飯を食わせる。困ってる子がおらんか
聞く。そこまで入れとかなあかん」
「それがあれば、抜けは減りますな」
「書記の者に思いついたところを箇条書きさせる。そこに俺が足していく」
「また仕事増えますね」
「増えるな」
博之は苦笑した。
だが、必要だった。
今の伊勢松坂屋は、もう博之一人が見て回れる大きさではない。拠点が増え、人が増え、
古参が店を持つようになれば、やり方を言葉にして残さなければならない。
飯の作り方だけではない。
拠点の作り方。
敵を作らない作法。
土地に馴染む手順。
それを残さないと、博之がいなくなった時に崩れる。
「先日の九鬼様との話でも、津や伊勢の港に横丁ができそうな空気でしたからね」
侍の一人が言った。
「あの感じやったら、話が進みそうです」
「まあ、あれは飯がうますぎて、向こうも少し乗ってはっただけかもしれん」
博之は言う。
「けど、まんざら無理でもないのが怖いところや」
ヨイチが笑った。
「今のうちは勢いありますからね」
「勢いがある時ほど、抜けたらあかん」
博之は少し声を低くした。
「特に挨拶回りや。寺社仏閣、近所の店、土地の顔役。最初の半月はトントンでええ。
飯を施す。周りに困ってる者がおったら手を差し伸べる」
皆が黙って聞いた。
「俺らは、もともと一文無しや」
博之は続けた。
「飯を食わせてくれるところもなかった。そこからの成り上がりや。店はでかくなってるけど、
心根はそこやぞ」
困っている者を助ける。
とはいえ、博之は綺麗ごとだけで言っているつもりはなかった。
「別に、助けたくて助けてるだけちゃう。見捨てたら寝覚めが悪いんや」
ヨイチがにやりとする。
「旦那、自分のひねくれてるところ分かってるんですね」
「分かっとるわい」
場に笑いが起きた。
だが、笑いながらも、古参たちは頷いていた。
伊勢松坂屋のやり方は、ただ安く飯を売ることではない。
食えない者を拾い、飯を食わせ、働く場所を作る。
その土地に銭を落とし、寺社に顔を立て、周りの反感を減らす。
そうやって根を張る。
「で、年末までまだ少しある」
博之は帳面を閉じた。
「長野様のところに、一万文持って挨拶に行っとこうかと思う」
「長野様ですか」
「津方面を見るなら、避けて通れへんやろ」
博之は指を折った。
「二万文持っていく。一万文は長野様への挨拶。残り一万文は、道中の寺社仏閣にばらまく」
「ばらまくって言い方」
「寄進や」
ヨイチが呆れながら笑う。
「また紋付き袴で行くんですか」
「もちろんや。年末最後の挨拶や」
今回、津道の拠点で挨拶が抜けていた。その詫びも兼ねて、博之自身がもう一度、
道中の寺社へ頭を下げるつもりだった。
「このままやったら、津の港にも横丁ができてまうかもしれん」
博之はぼそりと言った。
「できてまう、って」
「できるなら先に筋を通す」
侍が頷いた。
「長野様に先に顔を見せておくのは大事ですな」
「そうや。あと、道中の寺社にも、挨拶が遅れたことを俺からもう一回言う」
ヨイチがにやにやした。
「旦那、結構挨拶するの好きでしょう」
「好きちゃうわ。疲れるわ」
「でも、今のところうまいこといってますやん」
「まあな」
博之は少しだけ笑った。
「あと、飯持ってったら、みんな機嫌ええねん」
「旦那の飯は絶対うまいですからね」
「そこは否定せん」
博之は立ち上がった。
「ほな、支度や。弁当、握り飯、田楽、鶏串。あと、すり身天も少し持っていく。
親子丼は火を使える場所があったらやな」
古参たちが動き出す。
紋付き袴を整える者。
弁当箱を準備する者。
寄進の銭を包む者。
寺社への挨拶の書き付けを用意する者。
慌ただしくなった屋敷の中で、博之は一枚の紙を広げた。
「拠点作りの心得」
そう題を書いた。
一、寺社に挨拶すること。
一、近所に飯を配ること。
一、最初から黒字を求めぬこと。
一、困っている者を見つけること。
一、銭をため込まず、土地に落とすこと。
一、伊勢松坂屋の者として、偉そうにせぬこと。
博之は筆を止め、少し考えたあと、最後に一つ書き足した。
一、まず飯をうまく作ること。
それを見たヨイチが吹き出した。
「結局そこですか」
「そこが一番大事や」
博之は真顔で言った。
年末の空気は冷たい。
だが、伊勢松坂屋はまた次の道へ向かって動き出していた。




