博之44才12月4週目。新師範へ預ける焼印
十二月四週目。
年越しまで、いよいよあとわずか。
松阪城での三百文膳をくぐり抜け、正式に師範へ上げることが決まった者たちが、
伊勢松坂屋の本店へ集められていた。
博之の前には、職人に新しく作らせた焼印が並んでいる。
見習い。
任せ。
師範代。
師範。
同じものを一組だけではなく、今後各地へ持ち出せるように複数作らせていた。
「これ、お前らに預けるから」
師範たちが顔を見合わせた。
「私らが持つんですか?」
「そう」
「師範の印まで?」
「持つのは持っといたらええ。ただし、勝手にぽんぽん押せいう話ちゃうで」
横にいたヨイチが帳面を開く。
「誰が、誰に、いつ、どこで、どの焼印を押したか。これは必ず記録してください」
「その帳面は?」
「各師範に一冊ずつ渡します。定期的に松阪へ報告してください。こちらの大帳面にも写します」
博之が頷く。
「そういうこと。見習いから任せにした。任せから師範代にした。全部残す」
「判断は、私らで?」
「基本はな」
今までは、昇格となれば松阪へ話を持ってきて、博之や古参が確認することが多かった。
しかし、伊勢松坂屋の商圏は広がりすぎた。
尾張の料理人を一人昇格させるために松阪へ呼ぶ。
京都の任せを師範代へ上げるために、何日も文の往復をする。
そんなやり方では、もう回らない。
「これで俺が全部判定せんでもええやん」
博之は嬉しそうに言った。
「朝飯食うたびに、誰作った、呼んでこい、木札出せ、ぽん、ってやらんでもええ」
お花が静かに返した。
「その分暇になった旦那様が、また新しい仕事を作るのでしょうね」
「そんなことないよ」
「あります」
「俺は楽しいことを考えてるだけやで。仕事作ってる意識なんかないもん」
ヨイチが即答した。
「世間では、それを仕事を作ると言います」
「厳しいなあ」
師範たちから笑いが漏れた。
だが、自分たちの前に置かれた焼印を見れば、自然と表情は引き締まる。
「責任重大ですね」
一人が言った。
「そら重大やで」
博之は笑いながらも、そこだけは真面目だった。
「人の給金も変わる。任される仕事も変わる。木札に一個焼印が増えるいうんは、
その人にとったら結構でかいことや」
「はい」
「でも、師範まで上げた奴を、いつまでも俺が疑うんも格好悪いやろ」
博之は師範たちを見渡した。
「俺はもう、全部の店なんか見られへん」
松阪。
伊勢。
京都。
奈良。
堺。
尾張。
堅田。
その先には高島もあり、来年は三河方面も考えている。
「せやから、お前らが俺の目になってくれ」
「旦那様の目ですか」
「料理だけちゃうで」
博之は指を折った。
「行った先で、誰が頑張ってる。誰が人を育ててる。どこの店が困ってる。何が足らん。
地元の人らが何食いたがってる。そういうのを見てきてくれ」
「分かりました」
「それとな」
博之は続けた。
「伊勢松坂屋の格を上げろ、とまでは言わん」
「では?」
「親近感やな」
師範たちが少し首を傾げる。
「伊勢松坂屋の奴ら来たら、なんか楽しい。飯うまい。話聞いてくれる。
また来てほしい。そう思ってもらえたら十分や」
店を一軒増やすよりも、その土地で嫌われないこと。
できれば、ちょっと好かれること。
「予算もある程度任せる」
ヨイチが少し反応した。
「ある程度、ですよ」
「分かってるって」
博之は笑う。
「飯会した方がええならやればいい。地元の寺に少し寄進した方がええならやればいい。
炊き出しした方がええならやってくれ」
「大名家から料理を頼まれた場合は?」
「それもそっちで判断してええ」
師範の一人が目を丸くした。
「大名家でもですか」
「うん。どうしても分からん時は文くれたらええけど、基本は自分らでやってくれ」
「怖いですね」
「失敗したら俺が責任取る」
あっさり言われ、何人かが黙った。
「ここまで伊勢松坂屋でかくなってんねん。師範相手に無茶苦茶な不義理する相手も、そうおらんやろ」
博之は首元を指した。
「比叡山とあんだけ揉め倒して、最終的に覚書まで取ったんやぞ」
師範たちが吹き出した。
「それ言われたら確かに」
「大抵のところは、まだ話が通じそうですね」
「まあな」
「癖の強いお方は、どこにでもおりますけど」
「そこは頑張って」
「急に雑ですね」
また笑いが起きた。
博之は、焼印を一組ずつ師範の前へ置いた。
「とりあえず今年はこれで年越せる」
そして少し声を柔らかくした。
「正月に松阪城で正式にお披露目したら、それぞれ散ってもらう」
家族がいる者は、一緒に連れていって構わない。
一人で行きたいなら、それでもよい。
数か月ごとに松阪へ戻ってもよいし、気に入った土地があれば長くいてもよい。
「今のうちに家族とか、世話になった人とかに挨拶しとき」
「はい」
「全部こっちで縛るんも、おもんないからな」
博之は笑った。
「師範まで行ったら、たぶんどこ行っても飯食っていけるやろ」
すると師範の一人が、少し寂しそうに笑った。
「そんな寂しいこと言わんといてくださいよ」
「何が?」
「どこでも食っていけるとか。もう伊勢松坂屋から出ていってもええみたいな」
「いやいや、たらればの話や」
博之は慌てて手を振った。
「もちろん、ずっとおってくれる方が俺は嬉しいで」
「ほんまですか?」
「そらそうや」
少し照れたように笑う。
「ここまで育って、今度はお前らが次の奴を育ててくれるんやろ」
博之は並んだ焼印を見た。
「それ見れたら、育てた甲斐あったなって思えるやん」
師範たちは黙って頭を下げた。
見習い。
任せ。
師範代。
師範。
四つの焼印が、これから松阪を離れて各地へ散っていく。
伊勢松坂屋が次に広げようとしているものは、店だけではなかった。
人を育てる権限そのものが、少しずつ博之の手を離れようとしていた。
「まあ、頼むわ」
「はい」
「あと、変な焼印押すなよ」
「変な焼印とは?」
「『旦那様安静』とか」
お花が静かに答えた。
「それだけは一本作っておいてもよいかもしれませんね」
「なんでやねん!」
年の瀬の本店に、笑い声が広がった。




