博之44才12月4週目。松坂城、三百文の最終試験。乗り越えた全員を師範に決定。
十二月四週目。
伊勢松坂屋が松坂城で「三百文の特別膳」を出す。
しかも、料理を作るのは師範代の中でも、師範候補として最後まで残った者たち。
そんな話が松阪の町へ広がると、当然ながら騒ぎになった。
「行きたいわ」
「わしも三百文出すで」
「城で食えるんやろ?」
ところが、今回はいつもの市ではない。
場所は松坂城。
誰でも銭を払えば入れるわけではなかった。
「そもそも城の中まで入るんやから、人数絞るらしいで」
「ずるいなあ」
「しかも、前の二百文の師範代審査に参加した者が優先やって」
その話を聞いて、以前の審査会へ参加していた食通たちは急に胸を張った。
「ほら見い。あの時二百文払っといてよかったやろ」
「何がよかったんや」
「三百文払う資格ができた」
「結局また払うんかい」
それでも、皆どこか楽しそうだった。
年に何度もない特別な催し。
そのうえ、ここから本当に伊勢松坂屋の師範が生まれる。
「あいつ、師範になる前から食うたことあるで」
後々そう言えることまで、一種の自慢になり始めていた。
そして当日。
松坂城の中庭には仮設の焼き場と飯場が組まれ、師範候補たちが朝早くから動いていた。
米を炊く者。
魚へ塩を当てる者。
汁を見る者。
盛り付けを確認する者。
候補たちは、それぞれ自分の膳について城の重臣や客へ説明まで行う。
「この焼き物は、先に薄味の小鉢を食べていただいた後に」
「なぜこの味噌を?」
「冬なので少し濃くしております。ただ、最後まで重くならぬよう、汁は薄くしました」
「ほう」
少し前なら、料理をうまく作るだけで精一杯だった者たちである。
だが、野良試合。
炊き出し。
二百文の審査会。
客からの容赦ない品評。
そんな修羅場を何度もくぐってきただけあって、誰も完全には崩れなかった。
質問されれば答える。
料理が遅れれば下の者へ指示を出す。
客の膳を見て、食べる順番までさりげなく説明する。
それを見ていた松阪のお殿様は、終始ご機嫌だった。
「面白いな」
膳を一口食べる。
「しかも、うまい」
候補者たちの背筋が伸びた。
「この三百文なら、わしは文句ないぞ」
その一言で、何人かが目に見えてほっとした。
だが、お殿様が次に見るのは、自分の城の料理人たちである。
「で、お前らはどう思う」
北畠の料理番たちは互いに顔を見合わせた。
一人が正直に答えた。
「……これだけの膳を、一週間足らずで組み上げろと言われますと、なかなか」
「味は?」
「うまいです」
「勝てるか」
「それは……」
返事が鈍る。
師範候補たちは、少しだけ胸を張りかけた。
ところが、お殿様が笑った。
「何安心しとる」
「え?」
「お前らも、この中へ入って揉まれたらええ」
今度は北畠の料理人たちの顔が引きつった。
「殿、それは」
「伊勢松坂屋の師範候補がこれだけやるんや。城の料理番が負けてどうする」
「毎回これを求められるのですか」
「毎日は言わん」
お殿様は笑う。
「そんなことしたら、お前らが倒れる」
周囲から笑いが起こった。
「ただな、他家との宴や、大事な客を迎える時に、これぐらいのことができる料理人がおれば助かる」
「それは、確かに」
「飯というのは侮れん。うまい飯食わせた後の話し合いは、機嫌が違うからな」
その言葉に、博之も頷いた。
「そうなんですよ。毎日三百文膳なんか作らんでええんです」
「お前が言うか」
「言いますよ」
「一週間前にこいつらへ言うたらしいな」
師範候補たちが一斉に博之を見た。
「はい」
「鬼やな」
「鍛錬です」
「旦那様は無茶振りです」
候補の一人がぼそりと言い、皆が笑った。
博之も笑いながら、それでも候補者たちを見回した。
「でも、一週間足らずでここまで持ってきたからな」
空気が少し変わる。
「仕入れも自分らで考えた。六品の流れも作った。城の人らに説明もした。下の者もちゃんと動かした」
候補者たちが静かに聞く。
「もうええやろ」
「……え?」
「ここに残った者は、全員師範にする」
一瞬、誰も反応できなかった。
「全員ですか」
「うん」
「本当に?」
「ここまでやらせといて、まだ落としたら俺が嫌われるやろ」
「もう十分嫌われてます」
「なんでやねん」
笑いが起こった。
だが、候補者たちの顔には、明らかに安堵と喜びが浮かんでいた。
見習い。
任せ。
師範代。
そこから何度も試され、ようやく最後の焼印へ届いた。
「正月ぐらいに、正式なお披露目やな」
博之が言う。
「そこから、それぞれ各地の拠点に散らばってもらう。松阪だけやない。
京都、奈良、堺、尾張、堅田。いろんなところ見て、下を育ててもらう」
「いきなり忙しいですね」
「師範やからな」
その話を聞いていた松坂のお殿様が、楽しそうに口を挟んだ。
「ほな、正月の披露目も城でやったらええ」
「え?」
「今日これだけ面白かったんや」
お殿様は自分の料理番を見る。
「今度は新しい師範と、うちの料理番を混ぜて料理勝負や」
北畠の料理人たちの顔が再び固まった。
新しく師範になった者たちも、喜びかけた顔のまま止まる。
「殿様、それ正月ですよ」
博之が笑う。
「正月やからやるんやろ」
「それは面白そうやな」
「旦那様!」
師範たちの声が揃った。
年末最後の三百文勝負。
ようやく師範の焼印を手に入れたと思ったその瞬間、もう次の料理勝負が決まった。
伊勢松坂屋の料理人に、どうやらゆっくりした正月はなさそうだった。




