博之44才12月3週目。比叡山坂本。100万文の寄進と坂本にのこったもの
十二月三週目。
比叡山坂本へ、伊勢松坂屋から百万文が届いた。
先に取り決めていた、帰還と役務軽減の話をまとめたことへの寄進である。
荷を確認した現場の僧たちは、しばらく言葉を失った。
「……ほんまに来ましたな」
「百万文や」
「散々揉め散らかした相手から、百万文もろてええんやろか」
一人の僧が苦笑する。
「太っ腹というか、なんというか」
「大旦那は、民のことをよっぽど気にしてはるんでしょうな」
坂本の騒動では、伊勢松坂屋の飯場が襲われ、博之自身まで傷を負った。
その後も住民の受け入れ、飯、寝床、仕事、商人への補償と、伊勢松坂屋側は相当な銭を使っている。
それでも最後に百万文。
「普通なら、もう知らん言われてもおかしくないですわ」
「むしろ向こうが怒って当然やったからな」
そんな声をよそに、上から来た僧たちは百万文を受け取り、静かに山へ戻っていった。
それを見送った門前の僧が、小さくため息をついた。
「これを当たり前やと思ったら、あきませんな」
伊勢松坂屋のまとめ役も苦笑する。
「向こうは向こうの理屈があるんでしょうけどね」
「面子とか、寺の立場とか」
「うちらみたいに根無し草から集まって店作った側からすると、正直よう分からんところもあります」
「大丈夫です」
近くにいた坂本の町人が笑った。
「わしらもよう分かりませんから」
周囲から笑いが起きた。
そして、その町人たちの多くが、ようやく家へ戻れることになっていた。
「でもなあ」
一人の男が頭を下げた。
「伊勢松坂屋さんには、ほんま世話になった」
「いやいや」
「飯食わせてもろた。仕事もろた。子どもまで面倒見てもろた」
「困った時はお互い様です」
「これからも市は使わせてもらうで」
「もちろんです」
「炊き出しも続けるんやろ?」
「やりますよ。ただ、ずっと施しだけというより、市や催し物も混ぜながらやりたいと思ってます」
「そっちの方がええな」
まとめ役は頷いた。
「寺のお坊様とも、できるだけ一緒にやりたいんですよ」
門前の僧が笑う。
「上の方とは?」
「そこはまあ……」
まとめ役は困った顔をした。
「ちょっと溝がありますね」
「ははは」
「でも、今こうして現場で動いていただいてる和尚様や僧の皆さんとは、仲良くやれそうな気が
してます」
「こっちもそう思いますわ」
ただ、住民側にはまだ警戒も残っている。
「すぐ全部忘れろ言われても無理やで」
年配の男が言った。
「こっちは結構煮え湯飲まされたからな」
「それは当然です」
「まあ、おいおい様子見や」
それでも、男の顔は以前よりずっと穏やかだった。
「春先まで役務が軽くなる。無茶な取り立てもせえへん。そこを書いて残してくれたんは大きい」
「はい」
「年末ぐらい、家でゆっくりさせてもらうわ」
「それが一番ですよ」
伊勢松坂屋のまとめ役は笑った。
「何か必要なものが出たら言ってください。鍋がない、布団が足らん、屋根から雨漏りする。
その程度でもええですから」
「そういうところや」
「何がです?」
「かゆいところに手が届くねん、伊勢松坂屋は」
男は笑った。
「大名様や寺に、鍋一個足らん言うても話にならんやろ」
「まあ……そうですね」
「でも伊勢松坂屋やったら、次の日に中古の鍋持ってきそうや」
「あり得ますね」
門前の僧も笑った。
「そら伸びますわ」
「伸びる?」
「もう伊勢だけちゃうんでしょう。京都、大和、堺、尾張。堅田から北も見てるいう話ですし」
「今年は高島辺りまで、じわりですね」
「じわりでそこまで行くんですか」
「旦那様、年内安静なんですよ」
「安静?」
「はい。動けないので、文だけ大量に飛んできます」
「それ安静いうんですか」
「私らも疑問です」
また笑いが起こった。
「でも今年は、旦那様にとって比叡山坂本の皆さんが落ち着くことが、年末最大の
頭抱え事やったみたいなんで」
「そんな気にしてくれてたんか」
「ずっとですよ。『早よ家帰したれ』『気持ちよく年越したいねん』って」
「変な人やな」
「否定しません」
「それが終わったら?」
まとめ役が少し遠い目をした。
「溜まってると思いますよ」
「何が?」
「鬱憤が」
「怖いな」
「年明けた瞬間、一気に何か始める可能性あります」
門前の僧が声を出して笑った。
「頼もしいような、恐ろしいような」
「うまいもんが増えて、道が良うなって、荷が早う動くなら、こっちはありがたいけどな」
「そういうところから入るんですよ、うちは」
「気づいたら店ができて、人が集まって、市ができる」
「はい」
僧は坂本の町を眺めながら、ぽつりと言った。
「ほんま、戦国大名より勢いありますな」
「旦那様に言ったら、『飯屋です』って言いますよ」
「飯屋が比叡山相手に覚書取って、百万文寄進しますか」
「そこは私らにも分かりません」
僧は苦笑した。
「それにしても、比叡山をここまでかき回した商人は、そうそうおらんでしょう」
「結果的には、そうなりましたね」
「発言力、持たはりましたな」
まとめ役は少し考えた。
「銭だけやないと思います」
「ほう」
「飯食わせて、仕事作って、約束した銭は払って、逃げてきた人も守る。それを
見られてるんでしょうね」
「だから怖いんですわ」
僧が言った。
「周りの大名も、そろそろ気づくでしょうな」
「何にです?」
「伊勢松坂屋は、兵を持たんでも人が集まる」
まとめ役は黙った。
「城も取らん。領地も名乗らん。せやのに道と市と飯場だけ増えて、皆が名前知っとる」
「……旦那様が聞いたら嫌がりそうですね」
「戦国大名みたいや言うたら?」
「確実に『飯屋です』って返します」
二人は顔を見合わせて笑った。
坂本には、戻ってきた人々の声が少しずつ増えていた。
百万文の寄進よりも。
取り決めの紙よりも。
その笑い声こそが、この騒動がようやく年末へ向けて収まり始めた証なのかもしれなかった。




