博之44才12月2週目。任せから師範代の試験を兼ねた会。客の目が肥えている。下の者にあたりが強い料理人の師範代昇格を保留する。
一方、別の会場では、任せ印を持つ者たちが、師範代への昇格を懸けて腕を振るっていた。
こちらは一人百二十文。
見習いの八十文より値が上がるだけあって、客の期待も一段高い。
「やっぱり任せまで来ると違うな」
「見習いの会より、だいぶ安定しとる」
「魚の焼きも、汁の出汁も、外れが少ないわ」
評判はおおむね上々だった。
ただし、ここへ百二十文を払って来る客の多くは、すでに師範代御膳も知っている。
そのため、褒めるだけでは終わらなかった。
「これはうまい」
一人の男が焼き魚を食べ、何度も頷いた。
「これなら師範代御膳に混ざってても、おかしくないんちゃうか」
料理を出した任せの男が、嬉しそうに頭を下げる。
一方、別の膳では、
「うーん。百二十文なら満足や」
「ありがとうございます」
「でも、これ二百文出して何度も食いに来るかって言われたら、ちょっと考えるな」
料理人の顔が曇る。
「まずいわけちゃうで。むしろうまい。せやけど、師範代いうたら、その上を求めたくなるやん」
「なるほど……」
「あと一押しやな。食った後に、もう一回来たいと思わせる何か」
客たちは、もう完全に品評会の審査員だった。
そして料理人たちは、その言葉を真剣に聞いている。
昼過ぎ。
竹串の投票を集めると、かなり票を伸ばした者が何人か出た。
中でも一人、若い任せの料理人は頭一つ抜けていた。
焼き物も強い。
汁も評判が良い。
客の串もかなり集めている。
「これなら師範代やろ」
本人も、少しそんな顔をしていた。
だが、裏で見ていた古参たちの評価は違った。
「味はええ」
「うん」
「でも、あれはちょっと上に立たせたらあかん」
一人の古参が帳面へ小さく三角をつけた。
「見習いが皿を一枚遅らせた時、あからさまに睨んどった」
「薪運んでる子にも、もっと早よせえって怒鳴ってたな」
「客の前では愛想ええねんけどな」
「そこが余計にな」
博之から事前に言われていた。
師範代以上を見る時は、味だけを見るな。
下の者への接し方。
裏方への態度。
客がいないところで、どんな顔をするか。
そこも見ておけ、と。
夕方。
昇格候補が順番に呼ばれた。
問題の料理人も、少し誇らしげに前へ出た。
串の数だけ見れば十分だった。
「料理の腕はええ」
古参の一人が言った。
「ありがとうございます」
「客からの評判もええ。師範代御膳に入っててもおかしくない、いう声もあった」
男の顔がさらに明るくなる。
「ただし」
その一言で、表情が止まった。
「今回は師範代、見送りや」
「……え?」
男は思わず顔を上げた。
「なんでですか。串もかなり――」
「串は集めた」
「なら」
「味の話やない」
古参は静かに言った。
「お前、下の者への当たりが強すぎる」
男の顔が固まる。
「皿が遅れたら睨む。薪が遅れたら怒鳴る。自分の料理を出すことばっかり見て、
周りが何をしてるか見えてへん」
「でも、料理勝負ですから」
「そこや」
古参が少し声を強めた。
「料理勝負やけど、師範代を決める場でもある」
博之から預かっていた言葉を、そのまま伝える。
「伊勢松坂屋は、もともと飯が食えへん者や、根無し草や、ろくに仕事もできんかった者まで
集めて始めた店や」
男は黙った。
「今は違う。腕に覚えがあるから入ってくる者も増えた。伊勢松坂屋で名を上げたい、
師範になりたい。そういう者もおる」
「はい」
「それはええことや。でもな、上に行くほど、自分より下の者を雑に扱ったらあかん」
古参は会場を指した。
「お前の飯がうまく食えるのは、誰かが薪を運んだからや。誰かが器を洗ったからや。
誰かが客を並ばせて、道を空けて、飯を運んだからや」
「……」
「全部、自分一人で作った味やない」
男の肩が少し落ちた。
「料理の腕は師範代に届いてる。そこは誰も否定してへん」
「では……」
「だからこそ惜しいんや」
古参は言った。
「もう一回、下仕事やってこい」
「下仕事?」
「炊き出しで皿洗え。薪運べ。見習いと一緒に仕込みせえ。自分が今まで急かしてた側の仕事を、
もう一回ちゃんとやれ」
男は唇を噛んだ。
納得しきれない気持ちは、顔に出ていた。
せっかく串を集めた。
客にも褒められた。
味なら届いている。
それでも昇格できない。
悔しくないはずがない。
「次も受けてええんですか」
「当たり前や」
「料理は、このままで?」
「むしろ伸ばせ。腕はええんやから」
「……分かりました」
まだ少し不満は残っている。
それでも、ふてくされて帰ることはなかった。
翌日から、その男は炊き出しの裏へ入った。
薪を運び、椀を洗い、見習いへ声をかける。
最初はぎこちなかった。
「そこ、遅いぞ」
言いかけて、止まる。
「……いや。重いんやったら半分持つわ」
見習いが驚いた顔をした。
それを遠くから見た古参が、帳面に小さく丸をつけた。
師範代とは、うまい飯を作る者ではない。
うまい飯を、周りの者と一緒に作れる者。
伊勢松坂屋が大きくなったからこそ、その違いが、以前よりずっと大事になっていた。




