博之44才12月1週目。年末の師範昇格際に向けた料理人熱が上がる。大旦那のことやし年始もなんかあるはずと期待で気持ちが上がってる模様
十二月一週目。
比叡山坂本への文を出し終えた頃、今度は松坂の町から妙な噂が博之の耳に入ってきた。
「なんか最近、そこら中で野良試合やってるらしいな」
蜂蜜入りの葛湯をすすりながら博之が言うと、ヨイチが頷いた。
「年末に師範への昇格を見る催しを行う、と料理人たちに伝わっておりますから」
「ああ、それでか」
伊勢松坂屋の料理人たちは、すでに見習い、任せ、師範代と焼印を積み重ねている。
その先にあるのが師範。
年末、一年の締めとして、師範代の中から数人を師範へ上げる。
そんな話が広まったものだから、料理人たちは俄然やる気になっていた。
小さな市へ出る。
寺の炊き出しへ参加する。
町角で十食、二十食だけ飯を売る。
余った魚をどう料理するか競う。
客に値段をつけてもらう。
各地で勝手に「野良試合」が始まっていた。
「ええ感じで盛り上がってるんちゃうか」
博之は嬉しそうだった。
お花は少しだけ心配そうな顔をする。
「盛り上がりすぎて、本番までに疲れなければよいですが」
「冷めへんやろ」
博之は即答した。
「師範になったら、いろんな拠点へ行けるんやぞ。京都、奈良、堺、尾張、堅田。でかい顔できるし、
給金も上がるし、何よりモテる」
「最後の部分は旦那様だけが重要視していると思います」
「重要やろ」
「料理人たちは、もうそこそこモテていますよ」
お花は平然と言った。
「伊勢松坂屋の料理人というだけで、町ではかなり信用がありますから」
博之の顔が固まった。
「ずるない?」
「何がですか」
「それ、わしが作った伊勢松坂屋やぞ」
「はい」
「わしが飯場作って、店作って、銭回して、比叡山に首まで切られて作った信用やぞ」
「はい」
「なんで若い料理人ばっかり利益を享受して、わしは全然モテへんねん」
ヨイチが帳面から顔を上げた。
「若い女衆をたくさん雇えているではありませんか」
「雇ってるだけやないか。もうちょっとこう……個人的な恩恵というものがな」
「ふざけないでください」
お花にぴしゃりと言われた。
「いい年なんですから」
「なんでわしだけそんなに敷居高いん?」
「旦那様だからです」
「納得できへんなあ」
博之は少し考えた。
「毎月百万文ずつぐらい朝廷に寄進し続けたら、誰かええ人を紹介してくれへんかな」
「絶対にやめてください」
ヨイチとお花の声が重なった。
「本気でやりそうなので怖いです」
「冗談やん」
「旦那様の冗談は、翌日に文になります」
「信用ないなあ」
博之はしゅんとした。
だが、料理人たちの話へ戻ると、すぐに顔が明るくなった。
「でも、腕上げたいって思うのはええことや」
「そうですね」
伊勢松坂屋は、もう伊勢だけの飯屋ではない。
松阪。伊勢神宮。大湊。白子。津。
さらに奈良、京都、堺。
尾張の津島、熱田、常滑。
働ける場所はいくらでもある。
「これだけ拠点あったら、師範になった者には仕事いくらでもあるやろ」
「むしろ今は、伊勢松坂屋の拠点長になる方が、他所の店へ移るより信用が高いでしょう」
ヨイチが言った。
「給金も悪くありませんし、人も集まります。独立したい者は別でしょうが、結婚や病など、
特別な事情がない限り、残りたい者の方が多いと思います」
「そうなんやなあ」
「ただ、古参と新参では少し違います」
「それはあるやろな」
博之は頷いた。
伊勢松坂屋がまだ小さかった頃からいる者たちは、飯が食えるだけでもありがたい、
寝床があるだけでもありがたい、というところから始まっている。
根無し草だった者も多い。
一方で、最近入ってくる若い者は違う。
「最初から『伊勢松坂屋で名を上げたい』と思って入ってくる奴がおるんやな」
「はい。師範になりたい。京都へ行きたい。堺の店を任されたい。そういう者も増えています」
「そら、でかくなったら変わるわな」
博之は少し感慨深そうに言った。
「昔は今日の飯やった。今は出世か」
「それだけ道が見えるようになったということでしょう」
「悪いことやないな」
むしろ、やる気があるなら利用すればよい。
「炊き出しにもよう出るやろ」
「かなり参加しております」
「それも試験やからな」
今回の師範昇格は、料理の味だけを見るつもりではなかった。
飯を大量に作れるか。
材料が足りない時にどうするか。
列が乱れた時にどうさばくか。
子どもや老人にどう接するか。
見習いへ怒鳴るだけではなく、教えられるか。
炊き出しの最後まで片づけをするか。
「味はもちろん見る。でも、師範いうたら人を連れていかなあかんからな」
「はい」
「うち、根無し草やった者や、扱いの悪かった者が多いやろ。せやから、人当たり悪い奴は嫌やねん」
博之は少し真面目な顔になった。
「めちゃくちゃ料理うまくても、下の者に偉そうにして潰すような奴は師範にはしたくない」
「では、立ち振る舞いも見ますか」
「見る。ただし点数の大半にする必要はない。料理人なんやから味が一番や。でも、
最後の一押しにはなる」
「誰が見ます?」
「古参を何人か散らしたらええ」
博之は考えた。
「顔が売れすぎてない古参を、市とか炊き出しに行かせる。別に変装せえとは言わんけど、
偉い者が見に来たぞ、みたいにせんと、普通の客みたいに見る」
「なるほど」
「客にどう声かけるか。下の者が失敗した時どうするか。最後にゴミ拾って帰るか。そういうのな」
ヨイチが帳面へ記す。
「味は別途、正式に品評する」
「そう。それでええ」
博之は満足そうに頷いた。
「なんや、うまいこと回ってるやん」
「今のところは」
「見に行きたいなあ」
「駄目です」
お花の返事は早かった。
「ちょっとぐらい野良試合――」
「駄目です」
「炊き出しだけ――」
「駄目です」
「遠くから見るだけ」
「旦那様」
「はい」
博之はまたしゅんとした。
お花は葛湯を入れ直しながら、少しだけ笑った。
「旦那様が見に行かなくても、うちの子たちは十分やってくれています」
「そうなんかな」
「そうです」
ヨイチも頷いた。
「むしろ、それを確認するための師範制度ではありませんか」
博之は一瞬黙った。
「……正論やな」
「たまには休んでください」
外では、師範を目指す料理人たちが、今日もどこかで火を起こしていた。
大旦那が見ていなくても。
客がうまいと言う一皿を出すために。
伊勢松坂屋は少しずつ、本当に博之一人がいなくても回る店へ変わり始めていた。




