博之44歳11月4週目。比叡山のその後が気になるが連絡がなくイラつく博之。催促と約束守れたら100万文延暦寺に寄進するwww
十一月四週目も終わりに近づいた頃。
博之は、蜂蜜入りの葛湯を飲みながら、ふと思い出したように顔を上げた。
「そういや、比叡山坂本の話、まだ連絡来えへんの?」
ヨイチは手元の文箱を確かめた後、首を横に振った。
「何の音沙汰もございません」
「まだ?」
「はい。役務と年貢の軽減について、上で話し合っているとは聞いておりますが、
その後の返事はありません」
博之は露骨に嫌そうな顔をした。
「相変わらず延暦寺は遅いな」
「旦那様が早すぎるのです」
お花が静かに言う。
「いやいや、もう十一月の終わりやで。年内に家へ返すんやったら、
十二月二週目ぐらいまでには決め切らなあかんやろ」
家を確かめる。
畑を確かめる。
戻る人数を確かめる。
寺ごとの負担を確かめる。
細かい話が必要なのは分かる。
だが、そこに時間をかけすぎれば、結局また年を越してしまう。
「ヨイチ、もう一本文を書いて」
「催促でございますか」
「催促や。ケツ蹴飛ばしてこい」
「その言葉は書けません」
「ほな、柔らかく書いて」
「旦那様の柔らかくは、あまり信用できません」
博之は少し考えた後、指を折りながら言った。
「箇条書きみたいにしたらええ」
ヨイチが筆を構える。
「一つ。伊勢松坂屋の大旦那は、坂本から逃れてきた者が年内に家へ戻れることを、切に願っている」
「はい」
「二つ。役務と年貢の細かい減免率は、後から詰めてもええ。まずは戻す方向だけでも、
十二月二週目までに決める」
「大枠を先に決める、と」
「そう。三つ。家へ戻した後、年末年始の役務は原則として免除。少なくとも田植えの準備が
始まるまでは、無茶な徴発をせえへん」
「原則、という言葉でまとめます」
「四つ。約束が守られへんかった者は、もう一度伊勢松坂屋へ戻ってきてもええ」
ヨイチは頷きながら書き進めた。
「五つ」
博之は少し間を置いた。
「これをきちんと年内にまとめてくれたら、伊勢松坂屋から百万文を寄進する」
ヨイチの筆が止まった。
お花も博之を見る。
「百万文も差し上げるのですか。延暦寺へ」
「うん」
「旦那様、先ほど帳面を締めたばかりですよね」
「これは時間を買う銭や」
博之は葛湯の椀を置いた。
「俺の頭の中に、ずっと坂本の人らがおるんや。家へ帰れるんか、また役務で潰されるんちゃうか、
子どもは飯食えてるんか。そういうの考え続けるの、気持ち悪いねん」
「気持ち悪い、ですか」
「落ち着かへんという意味や」
博之は首元の傷を指でなぞった。
「俺が現場に行けるなら、直接話を詰める。でも今は、お花さんに止められてる」
「当然です」
「担当者がやるのと、俺が行って詰めるのとでは、どうしても速さが違う。せやったら、
今できるのは銭で釣るぐらいやろ」
「釣るという言い方はやめてください」
「決断を早めてもらう」
ヨイチが言い直した。
「それや」
「百万文を、決定後の炊き出し、寺の修繕、帰還者への支援に充てるという形なら、まだ筋は通ります」
「それでええ。全部好きに使われたら嫌やからな。帰ってくる者の飯、種籾、道具、家の修繕。
その辺に使えと」
お花は少し呆れたように、しかし柔らかい顔で言った。
「旦那様は、結構気にしいですからね」
「そら気にするやろ。こっちも気持ちよく年越したいねん」
「分からなくはありません」
ヨイチも苦笑した。
「坂本のことを考えながら、松阪で宴をするのは嫌なのでしょう」
「そうや。こっちはこっちで、年末はちゃんと炊き出しする。
『一年ありがとうございました』言うて、皆で飯を食う。せやから、向こうも家に帰れる者は
帰って、温かいもん食うたらええ」
博之は少し考えてから、さらに続けた。
「それと、今年最後に一回ぐらい、師範決めの催しをやろうか」
「また仕事が増えました」
お花が即座に言った。
「大きい大会やなくてええ。見習い、任せ、師範代まで焼印を持ってる者の中から、
師範へ上げてええ者を見る」
「料理だけで決めるのですか」
「料理、客さばき、帳面、下の者への教え方。全部や」
博之は指を立てた。
「師範になった者には、来年から各拠点を一年かけて回ってもらう」
「修行ですか」
「修行というより、仕組み作りやな。松阪、伊勢、鳥羽、白子、津、熱田、
京都郊外、堅田。順番に行って、その拠点が俺なしでも回るように整えてもらう」
お花の表情が、少しだけ曇った。
「また、寂しいことをおっしゃいますね」
「いやいや、首見ろ、首」
博之は布の巻かれた首を指した。
「俺がいつまでも全部見に行く前提がおかしいねん。今回みたいに切られて、
動けへんようになることもある」
「縁起でもないことを」
「実際になったやん」
ヨイチが小さく笑った。
「否定できませんね」
「ヨイチも、お花さんも、自分の分身を作らなあかんで」
二人が同時に博之を見た。
「来年の目標や。ヨイチの代わりに帳面を見られる者。お花さんの代わりに俺を止められる者」
「後者は非常に難しいです」
お花が真顔で答えた。
「旦那様を止めるには、かなりの胆力が必要です」
「そんな大層な」
「ヨイチさんでも止め切れませんから」
「私の方も、帳面を任せられる者を作るのは簡単ではありません」
ヨイチもため息をついた。
「数字を読めるだけでは駄目です。旦那様のどんぶり勘定を、正式な帳面へ直せる者が必要です」
「それ、俺が悪いみたいに聞こえるな」
「旦那様が原因です」
「即答やん」
お花とヨイチは顔を見合わせた。
「私たち、意外ときちんと仕事をしていましたね」
「本当に。代わりを作れと言われて、初めて難しさが分かりました」
「今さら?」
博之が言うと、三人の間に笑いが起きた。
比叡山への催促状。
百万文の寄進。
年末の炊き出し。
最後の師範決め。
そして、来年へ向けた分身作り。
年内安静を命じられているはずの博之は、相変わらず次々に仕事を生み出していた。
ヨイチは文を書き終え、最後に尋ねた。
「比叡山への文、これでよろしいですか」
「最後に一言足しといて」
「何と」
「細かい面子の話は春にやれ。年末ぐらい、皆を家へ帰したれ」
「……少し整えて書きます」
「頼むわ」
博之は再び葛湯を手に取った。
早く決まったという文が届けば、ようやく気持ちよく年を越せる。
そのためなら、百万文ぐらい安いものだ。
少なくとも、博之は本気でそう思っていた。




