博之44才11月4週目。比叡山坂本絡みの文を乱発して数日後、松坂郊外の和尚さんを呼び近況報告
比叡山坂本へ向けて文を乱発し出から数日後。
博之は、暇を持て余していた。
奈良、伊勢、京都郊外、大津、草津。必要な拠点には一通り文を送り終えた。
坂本の商人衆への支払いも、避難してきた者たちを戻すための三者協議も、
現場のまとめ役へ任せている。
お花からは、年内安静を厳命されていた。
「ほんま、暇やな」
「旦那様、昨日だけで二十通近く文を書いておられました」
「今日はまだ何もしてへんやん」
「まだ朝です」
遠出はできない。
町へ出れば、お花か女衆がついてくる。
ならば、向こうから来てもらえばよい。
博之は少し考え、松阪郊外の寺の和尚へ文を書いた。
暇なので、よかったら遊びに来ませんか。
蜂蜜を使った柚子湯と葛湯、それに軽い養生の膳を用意します。
あまりにも率直な文だった。
文を受け取った和尚は、昼過ぎには伊勢松坂屋本店へやってきた。
「難儀ですな、旦那様も」
「いやいや、本当はこっちからお伺いしたかったんですけど、安静にしろと言われてまして」
「首を斬られかけた者が、何を当たり前のように外へ出ようとしておりますのや」
「斬られかけたというか、ちょっと切られただけです」
お花が横から言った。
「旦那様」
「はい。安静にしております」
和尚は笑いながら、奥座敷へ通された。
膳には、胃に重くならぬものが並んでいた。
柔らかい飯。
野菜をよく煮た汁。
豆腐。
少量の焼き魚。
それに、蜂蜜を少し落とした柚子湯と、温かな葛湯。
和尚は葛湯を一口飲み、目を細めた。
「これは温まりますな」
「寒くなってきましたからね」
「郊外の炊き出しでも出したら、皆喜びますわ」
「葛は量を揃えるのが難しいですけど、柚子の皮と蜂蜜を薄くした湯なら、
少しずつ出せるかもしれませんね」
「冷えた体には、それだけでも違います」
「ほな、試しにやりましょうか」
和尚は苦笑した。
「旦那様と話すと、すぐ仕事が増えますな」
「今日は暇つぶしです」
「暇つぶしで炊き出しが一つ増えるんですか」
それから二人は、比叡山坂本の近況について話した。
和尚は郊外の小寺の住職にすぎない。
それでも、寺同士のつながりから、比叡山の振る舞いがあまりよろしくないという話は
以前から耳にしていた。
「大変でしたな」
「まあ、色々ありました」
「首の傷もそうですけど、比叡山相手に、あそこまでやるとは思いませんでした」
「やらんかったら、こっちがずっと舐められますからね」
「そういうところが、えげつないんですわ」
「和尚さん、結構言いますね」
「褒めております」
「ほんまですか」
「えげつないほど動いて、最後には人を家へ返そうとしておられる。根は優しいですな、という話です」
博之は、少し照れたように葛湯を飲んだ。
「別に優しいわけではないですよ」
「そうですか?」
「千人もずっと抱えたら、給金も飯も要ります。それに、坂本から働き手を引っこ抜いたままやったら、
また比叡山と揉めます」
「それだけなら、高島や今津へ送ればよいでしょう」
「仕事は作れます。堅田、高島、その先へ伸ばせば、雇い口はいくらでもあります」
「それでも、戻そうとしている」
和尚は静かに笑った。
「そこですわ」
博之は少し黙った。
「土地があるなら、捨てんでもええと思うんです」
「はい」
「伊勢松坂屋には、根無し草やった者が多いです。家も畑もなく、どこへ行っても邪魔者みたいに
扱われて、それで拾われた者が多い」
博之は、湯飲みを両手で包んだ。
「せやから、自分の土地に帰れるなら、帰った方がええ。もちろん、帰ってまた同じように役務を
押しつけられて、年貢を取られて、飯が食えへんようになるなら意味ないですけど」
「そのための三者の話し合いですな」
「そうです。寺と住民と伊勢松坂屋。役務をどこまで減らすのか。年貢をどれだけ待つのか。
少なくとも来年の田植えまでは、畑を立て直す時間がいる」
「守られなければ、また伊勢松坂屋へ戻ってもよい」
「そこまで覚書に入れたいと思ってます」
和尚は、感心したように頷いた。
「やることは凄まじいのに、最後に逃げ道を残すんですな」
「逃げ道がないと、誰も安心して戻れませんからね」
「根が優しいというのは、大事ですよ」
和尚は真面目な顔で言った。
「私らが旦那様と最初に付き合うた頃の気持ちを、全然忘れておられへんということです」
「最初の頃?」
「小さな寺に飯を出し、困った者がいたら拾い、場所を借りたら寄進を置いて帰る。
伊勢松坂屋が大きくなっても、そこは変わっておりません」
「そうですかね」
「そこがあるから、皆ついてきてるんですわ」
そう言われると、博之も悪い気はしなかった。
「まあ、年末ぐらいはな」
博之は小さく笑った。
「自分の家で、温かいもん食いながら過ごしたらええと思うんです」
「よろしいですな」
「伊勢松坂屋も坂本で炊き出しします。寺にも手伝ってもらって、市を開いて、
少し銭を回す。でも、できれば家族のいる者は家に帰る」
「そのためには、役務と年貢の交通整理が必要」
「そうです。また元の木阿弥になったらあかんので」
和尚は、残っていた葛湯を飲み干した。
「今年も色々ありましたな」
「色々ありすぎです」
「こちらは聞いていて楽しいですけど」
「こっちは首まで切られてるんですよ」
「その割には、もう次の敦賀の話をしておられる」
「高島までは今年中に固めたいですけど、北近江や敦賀は来年です」
「本当に止まる気あります?」
「年内安静ですから」
「文は飛ばす」
「文は座って書けますから」
お花が奥から顔を出した。
「旦那様、これ以上文を増やしてはいけません」
「まだ何も言うてへんやん」
「葛湯の炊き出しを思いついた顔をしています」
和尚が声を上げて笑った。
「よう見ておられますな」
「毎日見ていますので」
博之は少し不満そうに湯飲みを置いた。
「ほな、和尚さんの方から提案したことにしてくれません?」
「嫌ですわ。大旦那の思いつきとして、きちんと残しておきます」
「みんな冷たいなあ」
それでも座敷には、穏やかな笑いが広がった。
外では、冬を前にした冷たい風が吹いている。
比叡山坂本では、まだ難しい話し合いが続いていた。
だが松阪の奥座敷では、温かな葛湯を挟みながら、人を家へ帰すための道が、
ゆっくりと語られていた。




