帰り道の織田信長公。博之の延暦寺の一件と松坂での飯勝負での南伊勢の熱量を感じ取り、尾張での伸びしろを感じる。
織田信長公は、松坂を発った。
帰りは九鬼水軍の船を使い、伊勢の海を抜け、尾張へ戻る道である。
海は穏やかだった。
だが、船の上で腕を組む信長公の顔は、どこか険しい。
秀吉は、その横で黙って控えていた。
やがて信長公が、ぽつりと言った。
「博之が、戦国大名でなくてよかったな」
秀吉は、一瞬だけ目を丸くした。
「殿が、そこまで申されますか」
「申すわ」
信長公は、海の向こうへ目を向けた。
「比叡山相手に、あそこまで分捕れるとは思わなんだ」
「まことに」
秀吉も頷いた。
「普通は無理でございます。延暦寺相手に、謝罪を受けさせるだけでも大事。
銭二十万文も取れれば、それだけで手柄と言うてよろしい」
「それを、謝罪と弁償で終わらせぬ」
信長公の口元が、少しだけ歪んだ。
「貸し二つ。通行と炊き出し。小さな市。一時保護。さらに浅井と朝倉への口添えまで取る。
しかも、後からじわじわ効く形でな」
「えげつない取り方でございますな」
「えげつない」
信長公は、はっきりと言った。
「だが、力押しではない。刀を抜いておらん。飯を出し、証人を押さえ、三好と六角を立ち合わせ、
北畠の松坂の殿まで巻き込んだ。比叡山が怒鳴っても、引っ込めにくい形を先に作った」
「根無し草の勘、でございましょうか」
秀吉が言うと、信長公は頷いた。
「あれは、根無し草の動きじゃ。領地を持つ者は、まず面子を見る。寺は格式を見る。
武士は兵を見る。だが、博之は先に飯場を置く。人を置く。帳面を置く。銭を置く。
あとから筋を通す」
「普通は逆ですな」
「普通は逆じゃ。だから効く」
波が船腹を叩いた。
信長公は、少し笑った。
「しばらくは、お花に止められて安静じゃろうがな」
秀吉も思わず笑った。
「お花殿の前では、博之殿も形無しでございました」
「それでええ。あれが動き続けたら、周りが保たん」
「しかし、年内療養といっても、何もせぬ方ではございませぬな」
「するわ」
信長公は即答した。
「動けぬなら、指示を出す。女衆を歩かせ、任せの者を走らせ、ヨイチに帳面をつけさせる。
紅葉を見るだの、弁当を食うだのと言いながら、町の足元を固める」
「いかにも、やりそうでございます」
「比叡山の方も、もう見えておる」
信長公は、指で船縁を軽く叩いた。
「逃げてきた者を全部抱えることはできぬ。だから戻る者は戻す。戻らぬ者は京都郊外、
坂本、堅田、高島あたりに置く。比叡山方の寺と炊き出しを続け、揉めぬように中和させる」
「そして、道は残す」
「そうじゃ」
信長公の目が細くなる。
「京都郊外から坂本、堅田、高島。そこから今津、塩津、敦賀へ向かう。鯖街道の筋じゃ。
日本海へ出る道を、飯屋の顔で探りに行く」
「飯屋の顔で」
「そうじゃ。飯を出します。困った者を助けます。荷を運びます。商いをします。
そう言いながら、道を太くする」
秀吉は唸った。
「比叡山との騒動、結果だけ見れば、伊勢松坂屋の十対零でございますな」
「十対零じゃ」
信長公は、楽しげに笑った。
「謝罪を取った。銭を取った。通行を取った。炊き出しを取った。小市を取った。
避難民の扱いを取った。浅井と朝倉への口添えを取った。さらに坂本から堅田、高島へ足を置いた」
「比叡山は面子を保ったようで、実は道を許した」
「そこが怖い」
信長公は低く言った。
「機内で、伊勢松坂屋に正面から歯向かえる者が減るぞ」
秀吉の顔が少し引き締まる。
「三好も六角も、あの者を使えると見ます。寺も、飯と銭を持つ相手として無視できぬ。
町人は、飯を食わせてくれる方へ寄る」
「それに、あの飯の熱じゃ」
信長公は、松坂で食べた肉あんと焼き味噌を思い出したように、少し苦い顔をした。
「南伊勢の者らは、飯を味わうところまで意識が上がっておる。うまいのは当たり前。
払った銭以上のものを出せ、と来る」
「尾張とは段が違いましたな」
「まだ尾張は、飯が足りぬことで揉めておる場所がある。三河もそうじゃ。
美濃もそうじゃ。腹を満たすところで争っておる者と、飯の味に文句をつける者では、段が違う」
「世知辛いからこそ、伸びしろはあります」
「そうじゃ」
信長公は、強く頷いた。
「尾張でも、野良試合をせねばならん。料理番を台所に閉じ込めておるだけでは駄目じゃ。
町で出し、客の顔を見せ、文句を聞かせる。飯を食わせる催しを増やす。器も、味噌も、
魚も、酒も、もっと考えねばならん」
「殿が、料理でここまで熱を入れられるとは」
秀吉が少し驚いた顔をすると、信長公は鼻で笑った。
「料理だけではない。飯は兵糧であり、商いであり、民心じゃ。博之はそれを飯屋の顔でやっておる」
「だから、殿は大名と比べられる」
「わしは大名じゃ。だから大名の動きと比べる」
信長公の声は、静かだった。
「あれは大名ではない。城も持たぬ。兵も持たぬ。だが、飯場を置き、人を集め、
銭を回し、道を作る。民がそこへ寄る。寺も武士も、あとから無視できなくなる」
「城ではなく、飯場で領分を作る」
「そうじゃ」
信長公は笑った。
「戦国大名でなくてよかった。もしあれが兵を持ち、城を持ち、正式に国を取る者なら、
厄介どころではない」
「殿がそこまで褒めるのは、珍しゅうございますな」
秀吉は、思わずそう言った。
信長公は、少し不機嫌そうに眉を上げた。
「褒めてばかりではない。警戒もしておる」
「それでも、褒めておられます」
「すごいものは、すごいと言う」
信長公は、遠ざかる伊勢の方角を見た。
「比叡山相手にあの動き。南伊勢の飯の熱。焼印で人を育てる仕組み。堺、摂津、敦賀へ伸ばす道。
全部、無茶苦茶じゃ。だが、筋がある」
「筋がある無茶苦茶」
「そうじゃ」
信長公は、少し楽しそうに言った。
「だから面白い。だから怖い。だから学ぶところがある」
秀吉は深く頭を下げた。
「尾張でも、飯の野良試合を増やしましょう。料理番に町を見せ、客の声を聞かせます」
「やれ」
「器や味噌も、瀬戸や常滑と絡めて考えます」
「やれ」
「民が味わうところまで、少しずつ引き上げます」
「それもやれ」
信長公は、船の先を見た。
尾張の城へ戻れば、また戦の話が待っている。三河、美濃、蟹江、津島、熱田。火種は
いくらでもある。
だが、松坂で見たものは、ただの飯ではなかった。
飯で人を動かす力。
飯で道を作る力。
飯で領地の空気を変える力。
「博之め」
信長公は、小さく呟いた。
「ほんまに、飯屋でおってくれよ」
秀吉は、その横顔を見て思った。
殿は、珍しく本気で褒めている。
そして同じくらい、本気で警戒している。
伊勢松坂屋という飯屋は、尾張へ帰る船の上でも、信長公の頭から離れなかった。




