料理勝負終わり。信長公は南伊勢の料理熱に感心する。平和ボケも否めないがこれはこれでよい。ただ尾張美濃の飯のレベルがまだ達していない。伸びしろが可視化された。満足した。帰る。
料理勝負が終わる頃には、松坂城下の広場に、焼けた味噌と肉あんの匂いがまだ残っていた。
客たちは満足げに帰っていく。だが、ただ腹が膨れただけではない。
あれはもう少しこうした方がよい、これは昨日の串の方が香りが強かった、
城の副菜は上品だ、尾張の魚はもっと脂を生かせる、伊勢松坂屋の肉あんはやはり強い。
そんな声が、あちこちで飛び交っている。
信長公は、その様子をしばらく黙って見ていた。
そして、博之と松坂のお殿様へ向き直った。
「南伊勢の者らは、飯へのこだわりが半端ではないな」
博之は苦笑した。
「伊勢松坂屋が、ちょっと煽りすぎたかもしれません」
「ちょっとではない」
信長公は串を一本手に取り、残った焼き味噌を眺めた。
「この世知辛い世の中の飯とは思えん。極上のもんを食うておる。これ、飢饉になった時に困るぞ」
松阪のお殿様が、少し真顔で頷いた。
「だからこそ、飢えさせへんようにせなあきません」
「ほう」
「争い事が少なければ少ないほど、田畑は荒れません。人も逃げません。収穫物も上がります。
伊勢は気候も悪くない。海もあり、山もあり、港もあります。何とか保てております」
「飯がうまい領地は、領主も大変やな」
「そうですわ」
松坂のお殿様は笑ったが、その目は真面目だった。
「これだけ舌の肥えた客がいるということは、領地経営も頑張らなあかんということです。
飯の水準が上がると、民も見る目が変わる。米が悪い、味噌が足りん、魚が少ない、薪が高い。
すぐ分かりますからな」
博之は茶を飲みながら言った。
「京都へ行くと、世知辛さはめちゃくちゃ感じます。誰もが腹の底で警戒している。
寺も、公家も、商人も、町人も、武士も。飯を出しても、まず裏を探られます」
信長公が頷く。
「京都はそうじゃろうな」
「でも、伊勢に戻ると、どこかよそ事みたいな顔をしている人が多い。
戦の話も、飢えの話も、遠いところの話みたいに聞いている。危機感が足らんなあと
思うこともあります」
博之は、広場の方へ目を向けた。
子どもが竹串を持って笑っている。女衆が小鉢の話をしている。職人たちが、
次はもっと濃い味がいいだの、いや薄い方が酒に合うだのと言い合っている。
「でも、これが幸せなのかもしれないなあとも思うんです。住民にとっては」
信長公は少し黙った。
「尾張は違う」
その声は、いつもより少し低かった。
「尾張は、争いが絶えぬ。食えぬ者も多い。腹が満ちぬから、
人は動く。動けば争いになる。争いになれば、また田畑が荒れる」
博之は何も言わなかった。
信長公は、松坂の客たちを見ながら続けた。
「これだけ食える場所があると知れば、羨む者は多かろうな。攻め込みたくもなる」
「信長様」
秀吉が慌てて口を挟む。
「この場でそういうことを言うのはおやめください」
博之もすぐに言った。
「ほんまにやめてください。お見舞いと料理交流ですから」
信長公は笑った。
「分かっておる。今すぐ攻めると言うておるわけではない」
「今すぐ、という言い方も怖いです」
松阪のお殿様が苦笑する。
「信長公、伊勢は北畠の領分でございますよ」
「分かっておる。だから、こうして飯を食いに来ておる」
信長公は悪びれない。
そして、もう一度広場を見た。
「ただな、尾張、三河、美濃。飯が食えぬことで戦っておるところはある。
土地の力、領主の力、商いの力、寺社の力。そこに差がありすぎる」
「差、ですか」
「そうじゃ。伊勢の者がこの飯を当たり前に食うておるなら、尾張の者に食わせたら、
一週間はその味の話ばかりするぞ」
秀吉が苦笑した。
「確かに、尾張の城下でこれを出したら、大騒ぎになりますな」
「働かんようになるかもしれん」
「それは困ります」
「だが、それだけ伸びしろがあるということでもある」
信長公は、少し楽しそうに言った。
「世知辛いからこそ、飯を良くする余地がある。器を変える余地がある。新しい味を
入れる余地がある。民がうまいものを知れば、もっと作れ、もっと運べ、もっと売れ、となる」
博之は静かに頷いた。
「飯って、ただ食うだけじゃないですからね。器が変われば、同じ飯でも違って見える。
味噌が変われば、汁が変わる。港がつながれば魚が変わる。酒が入れば、夜の商いが変わる」
「農も同じじゃな」
信長公が言った。
「わしは畑を耕すわけではない。だが、より効率的にやれるものがあるなら、
取り入れた方がよい。水の引き方、道具、種、肥やし、荷の運び方。頭を使う余地はまだまだある」
松坂のお殿様が感心したように見る。
「信長公、飯の話から農まで行きますか」
「飯の元は農じゃろうが」
信長公は当然のように言った。
「うまい飯を食いたければ、米を作らねばならん。米を作るには、田を守らねばならん。
田を守るには、人を逃がしてはならん。人を逃がさぬには、食わせねばならん」
博之は思わず笑った。
「それ、うちがいつも言ってることに近いです」
「だから面白いのだ」
信長公は博之を見た。
「お前は飯屋の口でそれを言う。わしは領主の口でそれを言う。立場は違うが、
見ているものは少し似ている」
博之は少しだけ背筋を伸ばした。
「恐れ多いです」
「恐れ多いと思っておらん顔じゃ」
「思ってます」
「半分ぐらいじゃな」
松坂のお殿様が笑った。
「博之は、こう見えて飯の話になると、誰相手でも引きませんからな」
「それは良い」
信長公は、最後の一口を食べた。
「飯への探求は、領地を強くする。民の口が肥えるのは厄介だが、
同時に力にもなる。うまいものを食いたいと思う民は、働く理由を持つ。
売れるものを作る職人も増える。商人も動く」
博之は、深く頷いた。
「ただし、食えない時に反動がきついです」
「そうじゃ。だから飢えさせてはならん」
信長公は、松阪のお殿様を見た。
「伊勢は、その点では強いな」
松阪のお殿様は、少し照れたように笑った。
「強いというより、何とか保っているだけですわ。伊勢松坂屋が騒ぎを
起こしながら銭と飯を回してくれるので、助かっているところもあります」
「騒ぎを起こしながら、は余計です」
博之が言う。
「事実やろ」
「否定しきれませんけど」
お花が横から静かに茶を差し出した。
「皆様、そろそろお口直しを」
小さな甘味が出された。
まだ完成前のふくふく焼きの試作品だった。小豆は控えめで、
砂糖も貴重なため多くは使っていない。それでも、焼いた皮の香ばしさと、
わずかな甘さが口に残る。
信長公は一つ食べ、少し目を細めた。
「これが、福を呼ぶ焼き菓子か」
「試作です」
博之は少し嬉しそうに言った。
「堺から砂糖と小豆がもっと入れば、もう少し形になります」
「福が逃げんように作れよ」
「だから逃げませんって」
松坂のお殿様も笑い、秀吉もほっとした顔で甘味を口にした。
料理勝負は、勝ち負けだけでは終わらなかった。
尾張は、南伊勢の飯の熱を知った。
松阪は、自分たちの豊かさが外からどう見えるかを知った。
博之は、飯の道がさらに広がる予感を得た。
信長公は、飯と農と領地経営が一本の線でつながることを、改めて腹で理解した。
広場では、まだ料理番たちが片づけをしながら、互いの味について話していた。
尾張の料理番は悔しそうに、だが真剣に伊勢松坂屋の師範代へ質問している。
松坂の料理番は、自分たちの副菜を主菜へどう広げるかを考えている。
その光景を見て、信長公は満足げに立ち上がった。
「よし。飯も食うた。話も聞いた。来た甲斐があった」
「お見舞いでしたよね」
博之が言うと、信長公は笑った。
「そうじゃ。見舞いじゃ。お前が元気そうで何よりじゃ」
「比叡山の話と料理勝負の方が主でしたよね」
「ついでじゃ」
「絶対ついでじゃない」
松坂のお殿様が腹を抱えて笑った。
信長公は、そのまま帰り支度へ向かった。
だが、その背中には、来た時よりも少し違うものがあった。
飯を軽んじない武将の目。
博之はそれを見送りながら、静かに呟いた。
「この人、やっぱり怖いな」
お花が隣で言った。
「旦那様と似ています」
「やめてください」
「飯の話になると止まらないところが」
博之は返す言葉を探したが、見つからなかった。
松坂の空には、まだ焼き味噌の香りが薄く残っていた。




