年末の挨拶に奔走する博之。北畠様、九鬼様の返事待ちの間に伊勢方面の挨拶に出向く
年末が近づくと、博之はまた慌ただしく動き始めた。
「北畠様と九鬼様のところへ、年末の挨拶の使いを出す」
そう言って、古参の者を二人呼んだ。
「年末のご挨拶に伺いたいこと。それから、もしお許しいただけるなら、少し調理場を貸して
もらえないかということを伝えてくれ」
「調理場ですか」
「せや。振る舞い飯をするなら、向こうで火を使わせてもらえるかどうかが大事や。
火が合いそうなら、わしが直接行く」
博之は手紙を用意し、丸に井の紋付き袴も着せた。
「ちゃんとこれ着て行け。伊勢松坂屋の使いやと一目で分かるようにな」
古参たちは少し緊張しながら頷いた。
彼らを送り出すと、博之は別の支度に取りかかった。
「返事が来るまでの間に、伊勢の方を回る」
伊勢神宮そのものにいきなり踏み込むわけではない。まずは伊勢郊外の寺と神社に顔を出す。
神宮の周りで商いを始めるなら、周辺の寺社にも筋を通しておく必要がある。
持っていくのは、弁当二十人前と握り飯二十個。たくあん飯、梅飯、紫蘇飯。おかずには
田楽と鶏串を少し。
それに加えて、博之は銭の包みを二つ用意した。
「寺に五千文。神社にも五千文や」
ヨイチが目を丸くする。
「またえらい出しますな」
「伊勢は松坂とは違う。飯だけ持って行って、はい仲良くしてください、では足らんやろ」
博之は包みを布で包み直した。
「商売させてもらう土地に、最初に銭を落とす。寺にも神社にも顔を立てる。揉めてから謝るより、
先に頭下げとく方が安い」
「旦那、ほんまそういうところは用心深いな」
「怖がりなだけや」
そう言って、博之は侍を伴い、伊勢へ向かった
道中、博之はぽつりと言った。
「うちは今、伊勢松坂屋として二百人近い所帯になっとる」
「ほんま、大きくなりましたな」
「大きくなったからこそ、松坂一か所では怖い。火事、疫病、戦、夜盗。人も銭も一か所に
寄りすぎれば、失う時は一度や」
だから伊勢にも根を張りたい。だが、伊勢には伊勢のしきたりがある。神宮があり、
昔からの商いがあり、寺社もある。焦ってはいけない。
「まずは挨拶や。敵を作らんことからや」
伊勢郊外の寺に着くと、博之は深く頭を下げた。
「伊勢松坂屋の博之と申します。北畠様のお許しをいただき、松坂と伊勢街道、港筋で
飯屋をやらせてもらっております」
「ああ、伊勢街道で飯を出しておるところか」
「はい。まだ小さくですが」
「飯がうまいとは聞いておる」
その一言で、博之は少し肩の力が抜けた。
「ありがとうございます。実は、来年からこちらの方でも、少し商いをさせてもらいたいと
思っております」
博之は弁当と握り飯を差し出した。
「まずはご挨拶に参りました。こちら、うちの飯でございます。よろしければ皆様で
召し上がってください」
「いきなりこんなにもらってええのか」
「これからご近所さんになれたらと思っておりますので」
そこで博之は、五千文の包みを差し出した。
「それと、こちらはささやかですが、寄進としてお納めください」
寺の者は驚いた。
「五千文もか」
「はい。こちらで商いを始めるにあたり、まずは土地の方々に顔を立てたいのです」
博之は正直に続けた。
「この辺で飯に困っている子や、仕事にあぶれている者がおれば、うちで雇いたいとも考えております。
住むところと飯を用意して、横丁で働いてもらう形です」
「人も集めるのか」
「はい。松坂でも、孤児や未亡人、食い口のない者を雇って始めました」
「なるほど」
「いずれ口聞きや人の紹介をお願いすることもあるかもしれません。まずは、腹の内を隠さず
ご挨拶に参りました」
寺の者は、弁当と銭の包みを見て、柔らかく笑った。
「正直に言うのはええことや。変に隠されるより、腹が読める」
「ありがとうございます」
「穏便にやるなら、こちらとしても悪い話ではない。食えない子が飯にありつけるなら、
それはありがたい」
神社でも、博之は同じように頭を下げた。
「松坂から来た飯屋か」
「はい。来年から、こちらでも少しずつ商いをしたいと思っております」
「伊勢街道の方で、田楽や弁当を出していると聞いたことがある」
「その店でございます」
「飯がうまいという話は聞いとる」
博之は弁当と握り飯を渡し、さらに五千文の包みを差し出した。
「こちらも、寄進としてお納めください。これからご近所としてお世話になるかもしれませんので」
「最初から五千文とは、羽振りがええな」
「今、商いがうまく回っております。銭を抱えるだけでは怖いので、飯と縁に変えたいのです」
神社の者は、少し感心したように頷いた。
「郊外でやる分には、まだ話は通しやすい。だが、神宮の真ん中に近づくなら、簡単にはいかんぞ」
「心得ております」
「あそこはややこしい。昔からの商いもある。参宮の者も多い。神宮に関わる顔役も多い。
よそから来た者が急に入り込めると思わん方がええ」
「はい。まずは郊外で、揉め事を起こさず、飯を出すことから始めます」
「地道にやりなはれ」
その言葉は、寺でも神社でも何度か聞いた。
地道にやれ。
急ぐな。
郊外から始めろ。
飯がうまいなら、人は来る。
だが、伊勢の中心は焦るな。
帰り道、博之は侍と並んで歩きながら、ゆっくり息を吐いた。
「なんか、思ったより悪くなかったな」
「ええ。飯の評判と、五千文ずつの寄進が効いてますな」
「銭は出たけど、門前払いされんかっただけでも十分や」
「伊勢の郊外なら、足場は作れそうです」
「そこで寝床を作って、湯浴みも作って、仕事も作る。飯に困ってる子や、仕事のない者を集めて、
横丁を回す。松坂でやったことを、また一からやるだけや」
ただし、伊勢は松坂とは違う。
神宮がある。
寺社がある。
昔からの商いがある。
そこにいきなり割って入るのではなく、郊外から、街道から、飯で入る。
「振る舞い飯をするきっかけはできたかな」
博之は言った。
「年末か正月か、どこかで飯を出して、伊勢松坂屋の味を知ってもらう」
「また銭が出ますな」
「銭は出すためにある」
博之は笑った。
「飯に変えて、人に食わせる。寺や神社に預ける。そしたら名前になる」
夕方の道に、冬の風が吹いた。
伊勢は手ごわい。
だが、寺に五千文、神社に五千文を納め、飯も置いてきた。
扉は少しだけ開いた。
ならば焦らず、飯を炊くところから始めればいい。
それが、伊勢松坂屋のやり方だった。




