松坂城下の寺で急遽織田、松坂、伊勢松坂屋の料理対決前哨戦。50文という安さのため人が殺到。盛り上がる。住民の熱量が尾張と違う。
その日の夕方、松坂城下の寺で、急ごしらえの市が開かれることになった。
名目は、料理番同士の交流である。
だが、城下に流れた噂は、もっと分かりやすかった。
「五十文で、師範代級の飯が食えるらしいぞ」
「しかも尾張、松坂、伊勢松坂屋の三家や」
「信長公の料理番も来るんやろ」
「松坂のお殿様の料理番も出るらしい」
「伊勢松坂屋の師範代も焼くってよ」
噂は、火のついた薪のように広がった。
伊勢松坂屋としては、前売りの木札を少し出して、客の数を整えるつもりだった。
百人も来れば上々。少し多ければ、材料を足せばよい。そんな見立てだった。
しかし、甘かった。
夕方になる前から、寺の門前には人が並び始めた。町人、職人、女衆、子ども連れ、
港の者、城下の小商人、武士の下働きまでいる。
「木札、まだあるか」
「一人二枚までやぞ」
「わし、尾張の飯を食いたい」
「いや、まず伊勢松坂屋やろ」
「松坂のお城の料理も気になるな」
木札は、取り合いに近い勢いでなくなっていった。
寺の境内では、伊勢松坂屋の者たちが慌ただしく動いていた。
竹串を束で用意する。
火床を三つに分ける。
水桶を置く。
味噌、塩、酢、油、刻み野菜、肉あん、魚、団子、漬物を並べる。
尾張、松坂、伊勢松坂屋で、場所を分ける。
博之は、首に布を巻いたまま座って見ていた。
「百人ぐらいかなと思ってたんやけどな」
ヨイチが帳面を見ながら言う。
「すでに二百は超えています」
「二百」
「木札なしで見物している者も入れると、もっといます」
「五十文、安すぎたか」
「安すぎましたね」
お花が横から静かに言った。
「旦那様、今日は座っていてください」
「分かってる。口だけ出す」
「それが一番危ないです」
少し離れたところでは、三家の料理番たちが集まっていた。
尾張の料理番たちは、急な催しに少し緊張している。松坂城の料理番は、
城下の客の舌を知っているだけに、落ち着いて見えた。伊勢松坂屋の師範代たちは、
慣れた手つきで火加減を見ている。
尾張の料理番の一人が、小声で言った。
「ほな、勝負やな」
松坂の料理番がにやりとする。
「勝負言うたな」
伊勢松坂屋の師範代が、苦笑して間に入った。
「名目は交流です」
「心は勝負や」
「まあ、それは否定しませんけど」
尾張の料理番は少し肩をすくめた。
「こっちは急に連れてこられたんや。土地の味も分からん」
伊勢松坂屋の師範代は、少し考えて言った。
「松阪は、尾張に比べると、うちの店で食い慣れている人が多いです。味噌、塩、脂の感じに、
ある程度慣れています」
「つまり、濃いめか」
「濃すぎると嫌がられます。ただ、尾張より少し塩気を立てた方が、串では
ウケやすいかもしれません。あと、香ばしさです。焼き目をしっかり見せると強いです」
「なるほど」
「ただ、出しながら整えるしかないです。最初の十本、二十本で客の顔を見てください」
尾張の料理番は真剣に頷いた。
「助かる」
「明日、信長公にぶち切れられないためです」
「それは本当に助かる」
松坂の料理番が笑った。
「ほな、今日は肩慣らしやな」
「肩慣らしでこの人出ですか」
伊勢松坂屋の師範代は、境内を見て苦笑した。
やがて、火が入った。
竹串に刺した魚が炙られる。
肉あんを小さく包んだものが鉄板で焼かれる。
味噌を塗った野菜串が焦げ目をつける。
団子が膨らむ。
副菜の小鉢が並ぶ。
香りが立つと、客の列が一気にざわめいた。
「うわ、ええ匂いや」
「尾張のも食うぞ」
「松坂の副菜も見たい」
「伊勢松坂屋の肉あん、早く焼けへんかな」
最初は物珍しさもあって、尾張の列にも人が並んだ。
尾張の料理番は、ほっとしたように手を動かした。焼き魚に塩を振り、
少し甘めの味噌を塗った野菜串を出す。尾張らしい素朴さと勢いがあった。
客は受け取って食べる。
「お、これはこれでええな」
「尾張の味やな」
「ちょっと松坂より軽いか」
「魚はうまいぞ」
尾張の料理番たちの顔に、少し安堵が広がった。
一方、伊勢松坂屋の列は、最初から長かった。
肉あん。
焼き飯を小さく固めた串。
味噌鶏のつくね串。
小魚の香ばし焼き。
どれも、町の者が食べ慣れた伊勢松坂屋の味でありながら、串に合わせて少し濃く、
少し華やかに整えられていた。
「やっぱり、うちは伊勢松坂屋が好きやな」
「肉あんは外せん」
「これ、五十文でええんか」
「師範代が焼いてるんやろ。そらうまいわ」
そして、意外に強かったのが松坂城の料理番だった。
主菜で押すというより、副菜が細かい。
刻み菜の酢味噌和え。
小魚の甘辛煮。
豆の煮物。
薄切り大根の漬物。
焼き味噌を添えた小さな飯。
客の女衆や年配の者たちが、そこで足を止めた。
「これは上品やな」
「城の味や」
「副菜がええわ」
「伊勢松坂屋の肉あんと、松阪の小鉢で食べたい」
松阪の料理番は、少し誇らしげに笑った。
竹串の市は、思った以上に盛り上がった。
客は食べ比べる。
料理番は客の顔を見る。
伊勢松坂屋の若い衆は列をさばく。
寺の者は賽銭箱の横で、寄進の帳面をつける。
子どもたちは、串を持って走り回りそうになり、お花に止められる。
信長公は、少し離れた席でそれを見ていた。
尾張の串を食べ、松坂の副菜をつまみ、伊勢松坂屋の肉あんを口に入れる。
そして、少し顔を曇らせた。
「主力は、やはり伊勢松坂屋か」
秀吉がすぐに言った。
「これは土地の問題もございます」
「土地?」
「はい。松坂の者は、すでに伊勢松坂屋の味に慣れております。
何度も食べ、催しにも参加し、肉あんや味噌の香りを知っている。熱が違います」
「尾張の料理が負けておるわけではないと?」
「もちろん、もっと磨く必要はございます。ですが、これは爆発の問題ですわ」
「爆発?」
「民の熱でございます」
秀吉は、境内を見渡した。
「伊勢松坂屋は、ただ料理を出しているだけではございません。列の作り方、串の渡し方、
声かけ、食べる場所、子どもへの配慮、寺への寄進。全部込みで、客が乗っております」
松坂のお殿様も頷いた。
「南伊勢は料理強いぞ。野良試合をめちゃくちゃやってるからな」
「野良試合」
「各地で飯を出して、客の顔を見て、ちょっとずつ直してる。そら強い」
信長公は、尾張の料理番の方を見た。
「なら、尾張ももっとやらねばならんな」
秀吉は苦笑した。
「はい。ただ、料理番だけの話ではございません。住民に浸透させるところまでやらねば、
今日のような熱は出ませぬ」
「つまり、台所だけでなく、市そのものを育てろと」
「そういうことかと」
信長公は、しばらく黙っていた。
そして、また肉あんを一つ食べた。
「うまいな」
「はい」
「腹が立つほどうまい」
「それは料理番には言わぬ方がよろしいかと」
秀吉が言うと、信長公は笑った。
「言う。悔しがらせる」
「殿」
その頃、博之はお花の横で、客の流れを見ていた。
「尾張も悪くないですね」
「悪くない。急に来てあれなら、十分や」
「松坂のお城の副菜も強いです」
「うん。細かい料理は城の料理番が強いな。うちも学ぶところある」
「旦那様、楽しそうですね」
「飯の催しやからな」
「療養中ですが」
「座ってるから」
「声は出しすぎです」
境内では、次の焼き物が上がり、また歓声が起きた。
尾張、松坂、伊勢松坂屋。
三つの味は、勝ち負けをつけるにはまだ早かった。
だが、この夕方の市で、はっきりしたことがある。
伊勢松坂屋の強さは、味だけではない。
客を集める熱。
列を回す仕組み。
土地に馴染ませる速さ。
そして、飯を催しに変える力。
信長公は、その光景を見ながら、楽しそうに笑った。
「明日の昼が、楽しみになってきたな」
秀吉は小さくため息をついた。
「料理番たちには、今夜眠れぬ者が出ますな」
「眠らず考えればよい」
「殿、それが一番怖いのです」
松坂の寺の境内には、焼けた串の匂いと、人々の笑い声が満ちていた。
比叡山の話から始まったはずの一日は、いつの間にか、飯で国を競う前夜祭のようになっていた。




