比叡山騒動を一通り聞き終えて信長からこれからどうすると聞かれる。京都郊外→坂本→堅田→高島。敦賀まで見ていると話す博之
比叡山騒動の一通りを聞き終えた信長公は、しばらく黙っていた。
そして、ふいに言った。
「で、伊勢松坂屋としては、これからどうする」
博之は、茶を持つ手を止めた。
「これから、ですか」
「そうじゃ。坂本で飯を出し、比叡山と手を打ち、浅井と朝倉への口添えも取った。
そこで終わりではあるまい」
信長公の目は、笑っているようで笑っていない。
松阪のお殿様も、身を乗り出した。
「わしも聞きたいな。お前、また悪い顔をしとる」
「悪い顔はしてません」
お花が横から静かに言う。
「少ししています」
「お花さんまで」
博之は観念したように、帳面の横へ地図を広げた。
「当面は、京都郊外から比叡山坂本、堅田まで伸びました。さらに高島に手をかけています」
「高島か」
「はい。そこから今津、塩津、敦賀まで。日本海に出る道を模索することになります」
信長公が、ぴくりと眉を動かした。
「敦賀」
「はい。敦賀へ出れば、日本海側の港とつながります。海産物もありますし、港からの交易もあります」
「魚か」
「魚もそうですが、練り物、干物、塩、昆布。いろいろできます。あと、端的に言うと、
信楽焼や瀬戸焼を遠方へ運べます」
秀吉が思わず口を開いた。
「焼き物を日本海へ」
「はい。焼き物はかさばりますけど、船で運べば遠くまで行きます。
向こうで高く売れるものを見つけ、帰りに海産物を持ってくる。そうすれば、
一つ数字ができると思っています」
「数字、か」
信長公は、楽しそうに呟いた。
「お前は、何でも数字で見るな」
「飯屋ですから」
「飯屋は普通、敦賀の日本海交易まで見ない」
博之は聞こえないふりをした。
「それと、堺です」
「堺?」
「はい。今回の比叡山との騒動で、伊勢松坂屋が三好と六角へ
五百万文ずつ出した話が広がりました。一万貫をぽんと投げる飯屋を邪険にできない、
ということで、堺の中でも何件か店をやらせてもらえる流れになっています。
炊き出しと市も、少しずつできそうです」
松坂のお殿様が笑った。
「銭の噂は早いな」
「早いです。良くも悪くも」
博之は少し嬉しそうに続けた。
「堺へ入れると、砂糖と小豆が入ります」
「砂糖と小豆」
「はい。いよいよ、ふくふく焼きを作ろうと思ってまして」
信長公が首をかしげた。
「ふくふく焼き?」
「甘いあんを入れた焼き菓子です。薄い皮で包んで焼く形にしようと思っています。
藤井寺で海鮮焼きの型を作った職人に、ふくふく焼きの金型も頼んでおります」
博之の顔が、急に子どものように明るくなった。
「福を呼ぶ焼き菓子です。小豆と砂糖で甘くして、焼き印を入れて、縁起物として売ります」
松阪のお殿様が、すかさず言った。
「お前がやったら、福が逃げるってやつか」
「そんなこと言わないでください。僕、結構楽しみにしてるんですから」
信長公が声を上げて笑った。
「福が逃げる飯屋か。面白い」
「逃げません。呼びます」
「本当か」
「多分」
「多分か」
場に笑いが広がった。
博之は少し照れたように咳払いし、また地図へ視線を戻した。
「それと、摂津の方です。今、堺、難波、そのあたりへ道を作っています」
「摂津もか」
「はい。そちらの港を経由して、酒を仕入れることを考えています」
信長公の目が、また鋭くなった。
「酒」
「はい。摂津の酒です。それを紀州を通り、船で伊勢へ回す。伊勢は酒の需要がものすごくあります。
伊勢神宮、松阪、桑名、白子、津。どこも酒は売れます」
「尾張にも通るな」
「通ります」
博之は即答した。
「摂津の酒を、船で紀州、伊勢、尾張へ。陸上で運ぶと量が運べません。
酒はかさばりますし、重いです。壺や樽も大きい。陸路だと馬も人も食います」
「船なら量が出る」
「はい。ただし、船は沈む危険があります。なので、まずは百石船で海岸沿いに進む。
途中に拠点を作りながら、無理をせず回す」
秀吉が唸った。
「百石船を、酒のために」
「酒だけではありません。米、味噌、器、干物、焼き物、人も動かします」
「人も?」
「難民対策です」
博之は、さらりと言った。
「火種が起きた時、米や味噌を送れる。帰りには、逃げてきた人や働き口を探す人を乗せて帰れる。
船は戦うためではなく、運ぶために使います」
信長公がじっと博之を見た。
「九鬼水軍と組むつもりか」
「組むというか、お願いする形です。うちは戦う船ではなく、運ぶ船が欲しい。
水夫の修行もしてもらいます。荷を積む、下ろす、港で揉めない、相場を聞く。そういう船です」
「船で商いを回す」
「はい」
博之は地図の上で、伊勢湾から尾張、紀州、摂津をなぞった。
「通常は、伊勢と尾張をぐるぐる回る。信楽焼、瀬戸焼、伊勢小物、酒、米、味噌、干物。場所ごとに
相場が違いますから、高いところで売り、安いところで買う」
「米一つでもか」
「違います。尾張の津島と伊勢の松阪では、米の値が違います。
時期でも違う。港でも違う。陸の店と港でも違う。その差を帳面に集めて、
売って買って、売って買ってする」
夜市が横で静かに頷いた。
「相場帳を作り始めています。松阪、津、白子、桑名、津島、熱田、常滑、瀬戸、草津、大津、堅田、
京都郊外。まだ荒いですが」
信長公は、ヨイチを見た。
「相場帳か」
「はい」
「飯屋の帳面ではないな」
松坂のお殿様が笑った。
「もう商会やな」
秀吉も、ぽかんとした顔で地図を見ている。
「飯屋、ではございませぬな」
博之は、すぐに言った。
「飯屋です」
「どこがじゃ」
信長公が笑う。
「敦賀へ出て、日本海交易を狙い、堺で砂糖と小豆を仕入れ、摂津の酒を船で伊勢と尾張へ通し、
九鬼水軍と荷船を回し、相場帳を作る。それで飯屋か」
「飯を出すためです」
博之は真顔で答えた。
「飯を出すには、米が要ります。味噌が要ります。器も要ります。人を雇うには銭が要ります。
炊き出しをするには物流が要ります。酒を売れば銭になる。焼き物を売れば銭になる。
砂糖と小豆が入れば菓子が作れる。全部、飯屋を続けるためです」
信長公は、しばらく黙った。
その沈黙に、少しだけ緊張が混じる。
やがて、信長公は吹き出した。
「やはり大名味がある」
「またそれですか」
「いや、今のは大名どころか商人頭やな」
松坂のお殿様も笑いながら言った。
「博之、お前、ほんまに飯屋と言い張る気か」
「言い張ります」
「六億文持って、港を押さえ、船を回して、酒と焼き物と砂糖を扱って、まだ飯屋か」
「飯屋です」
お花が横から静かに言った。
「旦那様は飯屋です。ただし、少し大きくなりすぎた飯屋です」
「お花さん、それ褒めてます?」
「注意しています」
「ですよね」
信長公は、地図に目を落とした。
「摂津の酒が尾張に通る、か」
「はい」
「それは、わしにも利がある」
「もちろんです。尾張で酒が売れるなら、うちも嬉しいですし、津島や熱田の商いも回ります」
「その船に、瀬戸焼も乗る」
「乗ります。瀬戸焼を伊勢や摂津へ。信楽焼を尾張へ。伊勢小物を堺へ。帰りに酒、
砂糖、小豆、海産物。そういう流れです」
秀吉が、思わず笑った。
「殿、これは飯屋ではなく、道でございますな」
信長公は頷いた。
「道じゃな。飯の道、酒の道、銭の道」
博之は少し困ったように言った。
「そんな大層なものでは」
「大層なものじゃ」
信長公は、地図を叩いた。
「お前は、城を建てずに道を作っておる。道ができれば、飯が動く。飯が動けば人が動く。
人が動けば銭が動く。銭が動けば、また道が太くなる」
広間の者たちは、しばらくぽかんとしていた。
料理の話のはずだった。
飯屋の近況報告のはずだった。
比叡山騒動の後始末の話のはずだった。
それが、いつの間にか日本海、摂津、堺、紀州、伊勢、尾張を結ぶ物流の話になっている。
松坂のお殿様が、ぽつりと言った。
「ほんま、むちゃくちゃやな」
秀吉も頷いた。
「飯屋にしては、むちゃくちゃでかい話でございます」
博之は、少しだけ胸を張った。
「飯屋です」
信長公は、腹を抱えて笑った。
「分かった。お前は飯屋じゃ。だが、わしの知っている飯屋ではない」
お花がそっと茶を注ぐ。
博之はそれを受け取りながら、地図を見た。
京都郊外。
比叡山坂本。
堅田。
高島。
今津。
塩津。
敦賀。
堺。
難波。
紀州。
伊勢。
尾張。
釜から始まった道は、いつの間にか海へ伸びようとしていた。
「まあまあ、その辺ですかね」
博之は軽く言った。
だが、その場の誰もが思っていた。
その辺、で済む話ではない。
飯屋の大旦那は、茶を飲みながら、国と海をまたぐ商いの話をしていた。




