博之が織田信長に今回の比叡山騒動の顛末を丁寧に説明する。お前戦国大名味あるわと爆笑される。
博之は、信長公の前で茶を一口飲んだ。
信長公は、身を乗り出している。
松坂のお殿様も、面白そうに笑っている。
秀吉は控えめに座りながらも、耳を澄ませていた。
「そもそも、京都郊外に比叡山領分の人たちが逃げてきていました」
博之は静かに話し始めた。
「最初は数十人ほどです。毎日一人、二人、多い日は十人近く。腹を空かせて、身なりも悪くて、
子ども連れもいました」
「比叡山は、それを嫌がったわけか」
信長公が言う。
「はい。ただ、比叡山もすぐに力で潰そうとしたわけではありません。あちらも交渉の場を
探っていました。公家筋や寺社筋を通すか、こちらとの話し合いをどうするか。
そこを調整中だったんやと思います」
「調整中に、末端がやらかした」
「そうです」
博之は頷いた。
「末端の僧兵が、領民をけしかけました。伊勢松坂屋の飯場を住民が勝手に荒らしたことにして、
米や味噌や布団を奪わせようとした。しかも、その僧兵がついてきた」
信長公の口元が上がる。
「浅いな」
「浅いです」
博之も苦笑した。
「こちらは門を閉じず、逆に開けました。飯を出しました。腹が膨れた住民に事情を聞いたら、
僧兵に言われたと話す。証言が取れました。しかも僧兵もその場にいる。証拠が揃いました」
「一やらかしの上に、もう一やらかしやな」
松坂のお殿様が笑う。
「はい。しかも、生きた証拠つきです」
博之は続けた。
「そこで三好方と六角方に文を飛ばしました。現場を見てもらうためです。
あの時点で、三好と六角が立ち会いに出てきてくれたのが大きかったです」
信長公が目を細めた。
「そこへ便乗したか」
「しました」
「正直やな」
「ここで嘘をついても仕方ありません」
博之は苦笑した。
「三好と六角が来た。僧兵は縛られている。住民の証言もある。
比叡山は交渉の準備ができていない。なら、先にこちらが動くべきやと判断しました」
「つまり、相手に準備をさせなかった」
「そこが今回の肝です」
博之は、少し声を低くした。
「比叡山が本気で準備したら、こちらは面倒でした。公家筋、寺社筋、浅井、朝倉、
他の寺との付き合い。いくらでも根回しできます。こちらが京都郊外の飯場で待っていたら、
相手に盤面を整えられていたでしょう」
「だから走った」
「はい。中二日ぐらいの強行軍です。松阪から白子へ出て、草津へ入って一泊。
草津から京都郊外へ入り、その前日に比叡山へ文を飛ばしました。二日後には
会談の場を作っています」
秀吉が思わず口を挟んだ。
「それは、かなり早うございますな」
「早くないと意味がありませんでした」
博之は言った。
「相手が何の準備もしていない状態で、交渉の場に引きずり出す。それがまず一つ大きかったです」
「引きずり出す」
お花が横から静かに言った。
「旦那様、言い方を考えてください」
「あ、すみません。お越しいただいた、です」
信長公が大笑いした。
「今さら言い直しても遅いわ」
博之は頭をかいた。
「とにかく、この場で決めてしまいましょう、という形にしました。持ち帰らせない。
上へ相談させない。今決める。急がせたのはそちらでしょう、と」
信長公は、嬉しそうに膝を叩いた。
「相手の判断を鈍らせたわけやな」
「はい」
「旦那様」
お花がまた見る。
「……少しだけ」
「少しではありません」
信長公は腹を抱えて笑った。
「よい、よい。そこが聞きたかったのだ」
博之は咳払いした。
「その上で、比叡山から何を取るかです。正直、領地を取るわけにはいきません」
「当然じゃな」
「比叡山坂本の領分そのものも、私からするとそこまで美味しくはありません」
その言葉に、秀吉が少し驚いた。
「美味しくない、ですか」
「はい。商いの場所としては大事ですが、私の首を切られかけた件と、住民をけしかけて
飯場を荒らそうとした件。その見返りとしては、坂本周辺の黙認だけでは少ない」
「なるほど」
「ですから、そこにこだわるより、貸し二つという形で曖昧にしました」
信長公が楽しそうに目を細める。
「貸し二つ」
「はい。今すぐ全部を決めず、今後、伊勢松坂屋が比叡山へ二度、相応の融通を頼む。
その時は、よほど無茶でない限り聞いてもらう」
「ほう」
「それに謝罪、弁償、今後の襲撃禁止、通行の許可、郊外での炊き出しと小さな市、
困窮者の一時保護。これで、まず首の件を一つ片づけました」
「もう一つは」
「今回のやらかしです」
博之は茶を置いた。
「僧兵が住民をけしかけた件。その落とし前として、浅井と朝倉への商売の口添えを求めました」
信長公の笑みが、一瞬深くなった。
「そこへ行くか」
「はい。比叡山は坂本だけではありません。浅井や朝倉との筋があります。
こちらから敦賀、日本海側へ伸びるなら、その口添えの方が大きい」
秀吉が感心したように言った。
「坂本でなく、先を取ったわけでございますな」
「そうです」
博之は頷いた。
「比叡山は持ち帰りたいと言いました。でも、そこも押しました。
これ以上長引けば、話もまとまらない。民もどんどんこちらへ流れてくる。
坂本周辺の収拾も難しくなる。そう伝えて、大筋そこまで話を詰めました」
「すごすご帰らせた」
信長公が言う。
「そこまで偉そうには」
「言うたやろ」
「……まあ、結果としては」
松坂のお殿様がまた笑った。
「博之、お前ほんま言い方だけは柔らかくしようとするな」
「お花さんに怒られるので」
「怒ります」
お花が即答した。
信長公は楽しげに続けた。
「で、その証文を三好と六角にも写した」
「はい。立会人ですから。三好方、六角方、寺方、松坂のお殿様の立会いで、
大筋は正式な文書の形にしました」
「比叡山が後から文言で逃げにくいようにしたわけか」
「そうです」
「旦那様」
「……そういうことになります」
信長公はもう遠慮なく笑っていた。
博之は少し肩をすくめ、話を進めた。
「その後、比叡山坂本の郊外へ炊き出し場を複数作りました。京都郊外から坂本、
堅田への道を作るためです」
「道」
「はい。飯場、荷置き、古布団、釜、帳面。立派な店はいりません。
点で置く。そうすれば、困っている民に飯を食わせる口実ができます」
「口実か」
「もちろん、本当に飯を食わせます」
博之は少し真顔になった。
「ただ、口実も大事です。飯を出す場所がある。寝床もある。働ける者には仕事を振れる。
戻りたい者は戻れる。そういう形を作ると、僧兵も簡単には手を出せません」
信長公は静かに頷いた。
「つまり、飯場が砦になったわけやな」
「砦というより、釜です」
「釜の砦か」
信長公は、また膝を叩いた。
「面白い。刀で囲う砦ではなく、飯で人を集める砦じゃ」
「ただ、やりすぎるとこちらも抱えきれません。だから、途中で比叡山側の
寺で共同炊き出しをする流れにしました。相手も逃げる民を止めたい。
こちらも全部受けるとパンクする。そこが落としどころでした」
「そこまで読んでいたか」
「読んでいたというより、現場で帳面を見たらそうするしかないと分かりました」
博之は苦笑した。
「千人単位で人を受けるなら、飯も寝床も仕事もいります。伊勢松坂屋は、
比叡山の麓だけで商いしているわけではありません。他の拠点に影響が出ます」
信長公は、じっと博之を見た。
「なるほどな」
「何でしょう」
「お前、やはり戦国大名味がある」
広間に笑いが起きた。
博之は顔をしかめた。
「私は飯屋です」
「飯屋が、中二日で強行軍をし、比叡山を準備不足のまま交渉に引きずり出し、
三好と六角を証人にし、北畠を立て、浅井と朝倉の口を取り、坂本郊外に拠点を置き、
民を飯で動かすか」
信長公は、楽しそうに笑った。
「それを大名味と言わずして、何と言う」
松坂のお殿様も頷いた。
「わしもそう思う」
「殿まで」
「飯で領地を攻める大名やな」
「攻めてません」
お花が静かに言った。
「旦那様は、困っている方に飯を出しただけです」
信長公は、お花を見て、さらに笑った。
「よいな。その建前もまた強い」
「建前ではありません」
お花の目が少し鋭くなった。
「分かった分かった。怖いな」
信長公は笑いながら両手を上げた。
博之はため息をついた。
「とにかく、今回の肝は速さです。相手に準備させない。証拠を押さえた時点で、
三好と六角を巻き込み、松阪のお殿様にも来てもらい、その場で決める。決まったら、
すぐ拠点を置く。全部、先手先手でした」
「比叡山は面子があるから動けなかった」
「はい。大きい組織ほど、動く前に整えようとします。こちらは飯屋ですから、
釜を置いてから考えることができます」
信長公は、しばらく黙った。
そして、低く笑った。
「釜を置いてから考える、か」
その目は、楽しさだけではなく、何かを測るような鋭さを帯びていた。
「博之。お前の戦は、面白いな」
「戦ではありません」
「そう言うところも含めて、面白い」
信長公は笑った。
比叡山の騒動は、博之にとっては苦い落としどころだった。
だが、信長公の目には、それはまったく別のものに映っていた。
刀ではなく飯。
城ではなく飯場。
兵糧ではなく炊き出し。
領地ではなく道。
それらで相手の動きを封じ、民の流れを変える。
信長公は、心底愉快そうに笑った。
「やはり、直に聞きに来て正解やったわ」




