年嵩の比叡山の僧兵が伊勢松坂屋の飯を食べに来る。まとめ役と話し、飯の一部、市の一部を寄進や炊き出しに回しながらやる仕組みに気づく。比叡山で現状報告
年嵩の僧兵は、比叡山へ戻るなり、すぐに上の者へ呼び出された。
「伊勢松坂屋の飯を食うてきたそうやな」
上座の僧の声は冷たかった。
若い僧たちは、あからさまに不快な顔をしている。
「敵の飯を食うとは、どういう了見や」
年嵩の僧兵は、頭を下げたまま答えた。
「敵かどうかを見極めるためでございます」
「詭弁を言うな」
「いいえ。現状を申し上げます」
彼は顔を上げた。
「今、我らは街道沿いや飯場の周りに僧兵を多く出しております。ですが、
その僧兵を食わせる飯が足りませぬ」
場が静まった。
「飯?」
「はい。見張りに立たせれば、昼も夜も飯が要ります。これまでなら、
坂本の店々に緊急だから協力せよと言えば、ある程度は出ました。ところが今は違います」
「違うとは」
「銭を取られます」
若い僧が鼻で笑った。
「寺の者から銭を取るとは、坂本の民も舐めたものよ」
「舐めた、というだけでは済みませぬ。伊勢松坂屋が米も味噌も薪も買っている。
店々は、品不足を理由に銭を取ります。しかも、伊勢松坂屋から手付と証文を受け取っております」
「証文?」
「当月分の迷惑料、値上がり分の補填として、一軒あたり手付一千文、証文一万文ほど」
上座の僧の眉が動いた。
「そこまで出しておるのか」
「はい。店々は不満を持ちながらも、伊勢松坂屋は払う相手だと見ております。結果として、
こちらの不満を受け止めず、我らに銭を求めるようになりました」
若い僧が怒鳴った。
「ならば店々を締めればよい」
「締めれば、店々も伊勢松坂屋へ向かいます」
年嵩の僧兵は、低く言った。
「実際に、そう言われました。ここで揉めたら、わしらも向こうで飯を食いに行くことになる、と」
空気が重くなった。
年嵩の僧兵は続けた。
「それだけではございません。年貢を減らす、役務を軽くする、高利の取り立てを控える。
そう触れを出しても、民が信じませぬ」
「なぜだ」
「今だけやろう、と言われております。ほとぼりが冷めたら元に戻すのだろう、と」
「……」
「これまでの積み重ねでございます」
上座の僧は、じっと黙った。
若い僧は不満げに唇を噛む。
「お前は、伊勢松坂屋に丸め込まれたのか」
「そうではございません」
年嵩の僧兵は、少しだけ声を強めた。
「ただ、我らは伊勢松坂屋の力を見誤っております」
「何?」
「伊勢松坂屋は、ただ飯を出しているだけではありません。何十という拠点を持ち、
寺の境内を借り、市を開き、炊き出しをし、売上の一部を寄進に回す。
働く者に給金を払い、地元の店にも銭を払う。順々に銭と飯が回る仕組みを作っております」
「飯屋風情が」
「その飯屋風情が、三好と六角へ五百万文ずつ投げたのでございます」
若い僧が黙った。
上座の僧が、わずかに目を細めた。
「飯は、どうであった」
年嵩の僧兵は、一瞬言葉を選んだ。
「うまかったです」
場がざわつく。
「混ぜ飯は塩気の塩梅がよく、汁は味噌がしっかりしており、腹に残りました。
焼き飯という、飯を卵と油で炒めたものも出ました。食うたことのない食い方でしたが、
満足度が高い。肉あんという、肉と味噌と刻み野菜を練ったあんを薄い皮で包んで焼いた
ものもありました。小さいが、味が中に閉じ込められており、飯にも酒にも合う」
若い僧が、悔しそうに言った。
「敵の飯を褒めるのか」
「褒めるしかございません。安くはありません。ですが、安くないのに人が来る。
払った銭以上に腹に溜まるか、払った銭以上に満足するか。そのどちらかを継続して
出せているのでございます」
年嵩の僧兵は、さらに続けた。
「そして、その銭を炊き出しに使う。市の売上の一部を寺へ寄進する。寺は場所を貸し、
伊勢松坂屋は人を集める。人が集まれば銭が落ちる。銭が落ちれば、また飯が炊ける。
これは施しではなく、回っている仕組みです」
上座の僧は、ゆっくり息を吐いた。
「つまり、今ある坂本周辺の飯場を引き上げさせるのは難しいと」
「難しいです。他国から物資が入ります。伊勢、草津、大津、片田、奈良、宇治。
止めようとすればするほど、飯場へ逃げる者が増えます」
「ならば、どうする」
年嵩の僧兵は、一度頭を下げた。
「僧兵を一旦引くべきかと存じます」
若い僧が立ち上がった。
「馬鹿な!」
「並べれば並べるほど、兵糧が減ります。店々の不満も増えます。民は怯えて、
さらに伊勢松坂屋へ逃げます」
「では、黙って奪われろというのか」
「奪われている、という見方を改めるべきかと」
年嵩の僧兵は、静かに言った。
「民が逃げるのは、伊勢松坂屋が引き抜いているからだけではございません。我らの領分に、
飯と信用が足りないからです」
その言葉に、誰もすぐには返せなかった。
「まず、こちらも炊き出しをするべきです。伊勢松坂屋に教えを乞い、釜の置き方、列のさばき方、
飯の配り方、帳面のつけ方を学ぶ。民に、ここに残ってもよい、戻ってもよいと思わせる空気を作る」
「伊勢松坂屋に教えを乞うだと」
若い僧の声には怒りがあった。
「歯が立たぬと認めるのか」
「歯が立たぬとは申しません」
年嵩の僧兵は、首を振った。
「ですが、学ぶべきところはあります」
上座の僧が、低く言った。
「続けよ」
「伊勢松坂屋は、味噌や米を買います。こちらも一部を買わせる。
その代わり、売上や市の上がりの一部を寄進として戻してもらう。
覚え書きほど大仰でなくとも、約束を交わす。そうすれば、こちらの寺にも銭が回り、
民にも飯が回る」
「こちらの寺の境内で、市を開かせるということか」
「一つか二つ、試すのがよいかと存じます。延暦寺管内の寺で、こちらが見える場所に置く。
炊き出しを伊勢松坂屋と共同で行う。名目は、領民慰撫でも、施餓鬼でも、何でもよろしい」
「民は戻ると思うか」
「すぐには戻りませぬ」
年嵩の僧兵は正直に答えた。
「ですが、今のままなら、僧兵の兵糧は減り、民の逃げは増える。二重苦です。
まずは、民の腹と目の前に、こちらも変わるという形を見せるしかありません」
上座の僧は、長く黙った。
面子はある。
比叡山の権威もある。
飯屋に教えを乞うなど、屈辱に近い。
だが、前回の交渉で大筋はすでに決まっている。こちらが細かい文言を整える前に、
伊勢松坂屋は速攻で飯場を作り、荷を流し、港に足をかけた。いまさら力で押し戻そうとしても、
後手に回るだけである。
「……折衷案としては、悪くない」
上座の僧が、ぽつりと言った。
若い僧が驚く。
「上人」
「今は消耗戦だ。こちらがただ兵を並べれば、飯が減る。民も離れる。店々も不満を持つ。
ならば、一つか二つ、こちらの管内で試す」
「伊勢松坂屋を入れるのですか」
「見張れる場所でな」
上座の僧は、年嵩の僧兵を見た。
「ただし、頭を下げる言い方には気をつける。教えを乞うのではなく、
共同で領民救済を行う。そういう形にする」
年嵩の僧兵は頭を下げた。
「承知しました」
「味噌、米、薪の流れもこちらで把握する。寄進の取り決めも書かせる」
「はい」
「そして、民の反応を見る」
こうして、比叡山の中で、奇妙な方針がまとまり始めた。
僧兵を一部引く。
にらみ合いを少し緩める。
延暦寺管内の寺を一つ、あるいは二つ選ぶ。
そこで伊勢松坂屋に炊き出しの手ほどきを受ける。
市を小さく開き、売上の一部を寄進とする。
民が逃げるか、戻るか、留まるかを見る。
それは、勝利ではない。
だが、敗北とも言い切れない。
比叡山が、初めて伊勢松坂屋の仕組みを自分たちの側へ取り込もうとした瞬間だった。
数日後、坂本に近い一つの寺で、奇妙な炊き出しの準備が始まった。
釜を据えるのは伊勢松坂屋の者。
場所を貸すのは比叡山方の寺。
見ているのは僧兵。
並ぶのは、逃げようか戻ろうか迷っている民たち。
敵とも味方とも言い切れない者たちが、同じ釜の湯気を見ていた。




