比叡山と伊勢松坂屋の長期戦。緊急時に町の飯屋から飯を徴収するが銭を払えと言われる。敵の飯を食いもせず判断するから見誤る。まず食べてこいと住民に言われて伊勢松坂屋の飯場に向かう
比叡山と伊勢松坂屋の持久戦が始まって、数日が経った。
伊勢松坂屋の物流は、まったく止まらなかった。
京都郊外から大津へ。
大津から片田へ。
草津から坂本の手前へ。
片田の港から、また別の荷が入る。
米、味噌、薪、古布団、袴、器。
必要なものが、細く、しかし途切れず流れ続ける。
困り始めたのは、むしろ比叡山の僧兵たちだった。
見張りに出る。
街道に立つ。
炊き出し場を遠巻きに囲む。
港の端を見張る。
それには、人が要る。
そして、人がいれば飯が要る。
朝から夕まで立たせるなら、昼飯も晩飯も出さねばならない。数人ならどうにでもなる。
だが、四つの炊き出し場、港の端、坂本へ向かう道筋、堅田方面。あちこちに僧兵を散らせば、
食わせる数は馬鹿にならない。
「飯を持ってこい」
僧兵たちは、坂本周辺の店へ行った。
これまでなら、緊急事態だ、協力しろ、と言えば、店は渋々でも飯を出した。
寺領の中で商いをしている以上、比叡山の顔色は見なければならない。
ところが、今回は違った。
米屋の男は、腕を組んで言った。
「銭をいただきます」
僧兵は眉を吊り上げた。
「何で銭を取るんや」
「うちも米が足りんのですわ。伊勢松坂屋さんに大量に買われましてな」
「なら、伊勢松坂屋に文句を言えばええやろ」
「言いました」
「で?」
「当面一月分として、手付一千文、証文一万文をいただきました。迷惑料と値上がり分込みです」
僧兵は言葉に詰まった。
味噌屋も同じだった。
「味噌も足りません。売るなら値を上げます」
「寺の者に値を上げるのか」
「坊様でも無理なもんは無理です。うちも食うていかなあかんので」
茶屋の女将も、はっきり言った。
「今は炊き出しで客が減ってます。米も味噌も高い。飯を出すなら、その分はいただきます」
「仏罰が下るぞ」
苛立った僧兵がそう言うと、女将は鼻で笑った。
「仏罰を食ろうても逃げたい人が、あれだけおるんでしょう」
周りの店の者たちが、静かになった。
「ここ数日で、四百、五百は動いてるんやないですか。袴をはいて、
伊勢松坂屋の荷運びになって、飯場から飯場へ流れてる。うちらが見てへんと思ってますの」
「何を勝手な」
「勝手な見立てです。けど、たぶん皆、似たような見立てをしてます」
女将は、僧兵をまっすぐ見た。
「比叡山の方々は、一月も持たんのやないですか。飯が足りんから」
「何やと!」
僧兵が声を荒げる。
だが、米屋が間に入った。
「ここで揉めたら、わしらも向こうで飯を食いに行くことになりますよ」
その一言に、僧兵は黙った。
店の者たちは、今までなら比叡山の顔色をうかがっていた。だが、伊勢松坂屋という
逃げ場ができた。飯があり、銭があり、証文も出す相手がいる。
僧兵たちも、それを感じていた。
しぶしぶ銭を出して飯を買う。
だが、僧兵たちの給金は高くない。見張りのために飯代まで取られるとなると、
腹が立つ。しかも、値が上がっているせいで、腹いっぱい食べられるわけでもない。
「何でわしらが銭を払って飯を食わなあかんのや」
「見張りに出てるのに、腹が減って力が出ん」
「伊勢松坂屋の奴らは、向こうで飯を配っとるんやろ」
「こっちは飯を買わされる。あっちはただで食わせる。何やそれ」
僧兵たちの不満も、少しずつ膨らんでいった。
その一方で、比叡山側は領民に触れを出していた。
役務を軽くする。
年貢を当面減らす。
高利の取り立てを控える。
末端の横暴を禁じる。
だが、領民たちは素直には信じなかった。
「証拠はあるんか」
「どうせ、ほとぼりが冷めたら戻すんやろ」
「今だけや。伊勢松坂屋がいるから言うてるだけや」
「前にも、あとで考えると言われて、そのままやった」
道端で怒号が飛ぶことも増えた。
今まで、比叡山の下で働き、黙って耐えていた者たちが、言ったことのない不満を口にし始めていた。
僧兵の一人が、苛立って吐き捨てた。
「全部、伊勢松坂屋のせいや」
すると、近くにいた米屋の男が言った。
「それは違いますやろ」
「何?」
「伊勢松坂屋が来る前から、不満はあった。言わんかっただけです」
僧兵は睨んだ。
米屋は怯まず続けた。
「あんたら、伊勢松坂屋の飯を食うたことありますか」
「敵の飯なんぞ食えるかい」
「それが、まず間違いなんちゃいますか」
「何やと」
「井の中の蛙ですわ」
その言葉に、僧兵たちの空気が険しくなる。
だが、米屋は引かなかった。
「比叡山が由緒正しいことは分かってます。誰でも知ってます。けど、相手はただの飯屋やない。
ここ数年で畿内の半分ほどに拠点を作り、飯場を作り、荷を流し、銭を払う仕組みを作ってる」
茶屋の女将も続けた。
「それなりの味があって、それなりの仕組みがあって、それだけの銭があるんです。
安売りだけで広がったんやないでしょう」
味噌屋が頷く。
「安くもないのに客が来る。炊き出しだけやなく、ちゃんと金を払って食う人もいる。
払った銭以上に腹に溜まるか、払った銭以上に満足するか。どっちかですわ」
「だから何や」
「その飯を食わずに、相手を見下してる。それが今回の負けの始まりやないですか」
僧兵が怒鳴ろうとした。
だが、その場にいた僧兵を束ねる年嵩の男が、手で制した。
「待て」
「頭領」
年嵩の僧兵は、米屋たちを見た。
「お前らは、伊勢松坂屋の飯を食うたことがあるのか」
「あります」
「どうやった」
茶屋の女将が少し悔しそうに言った。
「うまいです」
米屋も頷いた。
「腹に残る。味が濃すぎるわけでもないのに、満足する。何より、
出すのが早い。列のさばき方も上手い」
味噌屋が言う。
「あれは飯だけやなくて、段取りです。誰が米を炊く、誰が汁を配る、
誰が子どもを奥へ通す、誰が帳面をつける。見てたら分かります」
年嵩の僧兵は、黙って聞いていた。
「もっと奥には、何か思想みたいなものもあるんでしょうな」
米屋は言った。
「困った人にはまず飯。戻りたい人は戻す。来たい人は受ける。働ける人には仕事を渡す。
あれをただの施しと見ると、たぶん見誤ります」
「……」
「あんたらは、そこを見てない。だから負けたんちゃいますか」
若い僧兵が、また声を荒げた。
「なんやと!」
だが、年嵩の僧兵は動かなかった。
むしろ、深く息を吐いた。
「確かに、それもそうかもしれんな」
「頭領?」
「相手の飯も食わずに、相手の強さは分からん」
その言葉に、僧兵たちはざわついた。
「敵の飯を食うのですか」
「敵かどうかも、まだ分からん」
「しかし」
「一回、郊外の市へ行くぞ」
年嵩の僧兵は、静かに言った。
「偉いさんにも話す。見張るだけでは分からん。飯を食う。列を見る。銭を払う者と、
炊き出しに並ぶ者の違いを見る。何が人を引き寄せているのか、自分の腹で確かめる」
若い僧兵は不満そうだった。
だが、店の者たちは小さく頷いた。
「それがええです」
米屋が言った。
「食えば、少なくとも見え方は変わります」
比叡山は強い。
だが、強さだけでは、飯の匂いは止められない。
数日続いた持久戦の中で、僧兵たちはようやく、伊勢松坂屋をただ睨むだけではなく、
見に行かねばならない相手だと気づき始めていた。




