草津から関への帰り道、博之は坂本の続報を聞き持久戦を考え伊勢からも物資を送ることにする。買付に対して他から不満がでる。苦しい戦い
京都郊外の四つの飯場では、比叡山の僧兵とのにらみ合いが続いていた。
僧兵たちは、炊き出し場を直接襲いはしない。
だが、街道沿いに立つ。
道の分かれ目に控える。
寺の門の近くで、飯場へ向かう者をじっと見る。
露骨に刃を抜くわけではない。怒鳴るわけでもない。
それでも、腹を空かせた領民たちにとっては十分な圧だった。
伊勢松坂屋の京都郊外のまとめ役は、その様子をすぐに各地へ知らせた。
寺の住職へ。
堅田へ。
大津、草津へ。
そして、草津から関、亀山方面へ戻っている博之の一行へ。
――比叡山、僧兵を街道沿いに配置。
――炊き出し場を遠巻きに囲む。
――直接の手出しはなし。
――困窮者、なお飯場へ流入。
――荷は入っているが、にらみ合い続く。
――飯を切らさぬことが肝要。
文は、伊勢松坂屋の荷の道を逆に走った。
草津から関へ。
関から亀山へ。
博之は、帰り道の途中でその続報を受け取った。
籠の中で文を読んだ博之は、しばらく黙った。
「……持久戦やな」
お花が顔を曇らせる。
「やはり、比叡山は僧兵を出しましたか」
「出した。ただ、手は出してへん。睨んで止めようとしてる」
「それでも怖いでしょうね」
「怖いやろな」
博之は文を閉じ、すぐにヨイチを呼んだ。
「書け」
「はい」
「各拠点の判断で動け。ただし、飯は絶対に切らすな。これが大前提や」
ヨイチが筆を走らせる。
「伊勢の方から、米と味噌を出せるだけ出す。松阪、津、白子、関、亀山、草津、大津。
少しずつでもええ。坂本周辺へ流せ」
「はい」
「それと、袴を集めろ」
ヨイチが顔を上げた。
「袴、ですか」
「そうや。古い袴でもええ。破れがひどいものは直せ。飯場で働く者が着られるようにして、
坂本周辺へ送れ」
お花も少し首をかしげた。
「何に使うんですか」
「逃げてきた人を、ただの逃げ人のまま歩かせたら、僧兵に止められる」
博之は、文箱を指で叩いた。
「けど、袴を着せて、荷を担がせたら、伊勢松坂屋の手伝いや。飯場の荷運び、薪運び、米運び、
布団運び。そういう形にする」
「身なりを整えて、仕事を与えるわけですね」
「そうや。みすぼらしいまま歩かせたら、逃げてきた領民に見える。けど、袴をはいて、
荷札をつけた荷を持ち、飯場から飯場へ動けば、うちの働き手や」
ヨイチは、うなずきながら筆を走らせた。
「京都郊外や堅田に着いたら、袴はどうしますか」
「また坂本の方へ戻せ」
「繰り返し使うんですね」
「そうや。袴が道を回る。人が荷を運ぶ。飯場から飯場へ移る。逃げてきた人を、
ただ保護するだけやなく、働ける者として扱う」
お花は静かに言った。
「それなら、本人の誇りも少し守れますね」
「そういうことや」
博之は小さく頷いた。
「ただ飯をもらうだけやと、心が折れる人もおる。袴をはいて、荷を担いで、飯場の役に立つ。
そうしたら、逃げてきたんやなくて、働きに来たと言える」
松坂の城主が、横から感心したように笑った。
「お前、悪いこと考えるわりに、変なところで人の心を拾うな」
「悪いことちゃいます」
「比叡山から見たら、十分悪いことや」
「知りません」
お花がすぐに口を挟む。
「旦那様。喧嘩をするつもりはない、というところは徹底してください」
「もちろんや」
博之は即答した。
「僧兵を煽るな。道を塞がれても殴るな。荷を取られそうになったら、証人を呼べ。
寺の者、三好、六角、港の顔役。とにかく記録や。刀ではなく、帳面で勝つ」
「はい」
「京都でも買える飯は買え。米、麦、豆、味噌、塩、干物。値が上がるのは仕方ない。
ただし、買い占めて値を壊すな。周りの店を敵にするな」
「買える分だけ買って、順々に送る」
「そうや」
博之はさらに続けた。
「宇治にも話を回せ。奈良にもや。奈良の寺とは交流がある。炊き出し用の米、味噌、古布団、
薬、手伝い。聞けるものは聞け。佐和山の方にも探りを入れろ。浅井筋に近い。
今すぐ大きく動かんでええが、いずれ高島、今津へ伸ばすなら要る」
お花は、博之の顔を見た。
「旦那様、無茶をする顔です」
「無茶やない。困ってる人が多すぎるんや」
博之の声は、少しだけ沈んだ。
「僧兵が睨んでる中を、飯を求めて抜けてくる人がおる。そこまで苦しんでるんやろ。なら、
せめて飯は切らしたらあかん」
お花は何も言わなかった。
比叡山に勝ちたいだけではない。
博之は、本当に腹を空かせた人を見捨てられない。
一方、比叡山側も、伊勢松坂屋の動きを苦々しく見ていた。
街道沿いの僧兵たちは、袴をはいた者が荷を担いで飯場から飯場へ動くのを見つける。
「おい、その者はどこの者だ」
僧兵が呼び止める。
伊勢松坂屋の若い衆が、すぐに前へ出た。
「伊勢松坂屋の手伝いです」
「昨日までこちらの領分におった者やろう」
「今は荷運びをしております。飯場へ米を運んでおります」
「戻せ」
「本人が戻りたいと言えば、戻ります。門も道も閉じておりません」
そう言われると、僧兵は手を出せなかった。
袴をつかんで引き戻せば、伊勢松坂屋の働き手を力ずくで連れ去ったことになる。
荷を奪えば、通行を妨げたことになる。飯場を壊せば、覚え書き違反になる。
だから、見ているしかなかった。
その間にも、飯は届く。
米俵。
味噌樽。
干物。
豆。
古布団。
袴。
薪。
器。
京都郊外、大津、草津、片田から、荷が少しずつ坂本周辺へ入っていく。
僧兵たちは、苛立った。
飯を奪うことはできない。
荷を止めることもできない。
手を出せば、また話が大きくなる。
ただ睨むしかない。
だが、にらみ合いが続くにつれ、別の不満が周りから出始めた。
街道沿いの小さな店。
寺領内の米屋。
味噌屋。
薪売り。
旅人相手の茶屋。
伊勢松坂屋が大量に物を買うことで、品が動く。銭は落ちる。だが、同時に値がざわつく。
「米が先に買われた」
「味噌樽が足りん」
「薪を伊勢松坂屋が押さえた」
「客が炊き出しに流れて、うちの粥を食わん」
「でも、あいつら銭は払うんや」
「払うから余計に文句が言いにくい」
商人たちは、困った顔をした。
伊勢松坂屋は奪わない。
値切り倒すわけでもない。
むしろ買ってくれる。
だが、買う量が多い。動きが早い。飯をただで出す。
それで町の空気が変わっていく。
比叡山の僧たちは、その不満も聞かねばならなくなった。
「伊勢松坂屋を止めてください」
「米の値が上がります」
「うちの客が減ります」
だが、止めればまた覚え書きの話になる。
京都郊外のまとめ役は、その空気を肌で感じていた。
「飯を切らしたら負けや」
彼は、釜の火を見ながら言った。
「でも、周りの店を敵にしても負ける。買う。払う。値を壊さない。戻る人は戻す。
来る人は受ける。袴を回して、人を荷運びにする」
寺の住職が頷いた。
「まことに難しい戦ですな」
「戦やないです」
まとめ役は苦笑した。
「旦那様なら、そう言います。飯を出してるだけや、と」
その時、また荷車が一つ到着した。
袴をはいた若い男が、汗だくで米俵を下ろす。彼は昨日まで比叡山の領分にいた者だった。
今は、伊勢松坂屋の手伝いとして、飯場から飯場へ米を運んでいる。
遠くで僧兵が見ている。
だが、手は出せない。
釜の湯気は、今日も止まらなかった。




