同じころ、比叡山も指を加えてみているわけもなく僧兵を繰り出す。拠点を荒らさないが周囲に兵を置き威圧する。持久戦の模様
同じ頃、比叡山もただ黙って見ていたわけではなかった。
伊勢松坂屋の動きは早すぎた。
京都郊外から坂本へ向かう道筋。
大津から堅田へ抜ける荷の流れ。
港の端に置かれた炊き出し場。
寺の境内を借りた小さな飯場。
道沿いに立つ粗い屋根と釜。
昨日、大筋で話がまとまったばかりだというのに、もう湯気が上がっている。
比叡山の上の者たちは焦った。
「このままでは、人が流れる」
「だが、手を出せば覚え書き違反になる」
「飯場を潰せば、また三好と六角に文が飛ぶぞ」
「松坂の大膳亮も、まだ近くにおる」
ならばどうするか。
露骨に襲うことはできない。
荷を奪うこともできない。
飯場を壊すこともできない。
だが、何もしなければ領民が飯場へ流れていく。
結局、比叡山は僧兵を出すことにした。
ただし、飯場を襲わせるのではない。
炊き出し場を遠巻きに囲む。
街道沿いに立つ。
道の分かれ目に控える。
寺の門の近くに姿を見せる。
刃を抜くわけではない。
怒鳴るわけでもない。
だが、そこにいるだけで、領民には十分な圧になった。
「今日は行かん方がええ」
「僧兵が見とる」
「また名前を控えられるかもしれん」
「家に戻れと言われたらどうする」
そうして、比叡山は人の流れを鈍らせようとした。
しかし、それでも全員を止めることはできなかった。
腹を空かせた者は、僧兵の目を盗んで道を抜けた。
子どもの手を引いた母親が、藪道から出てきた。
年寄りが、杖をつきながら遠回りをして飯場へ来た。
若い男が、荷を背負って走り込んできた。
伊勢松坂屋の飯場では、それを見た若い衆がすぐに声をかけた。
「こちらへ。まず飯です」
「水もあります」
「子どもさんは奥へ」
「座ってください。熱いので、ゆっくり」
門は開いている。
釜は湯気を上げている。
混ぜ飯、味噌汁、漬物、少しの肉餡。粗末なものではあるが、腹を空かせた者には十分すぎた。
比叡山の僧兵が、少し離れたところから睨む。
「食うたら戻れ」
そう声をかける者もいた。
だが、飯をかき込んでいた男が、椀を抱えたまま顔を上げた。
「そんなこと言われたら、余計に戻りたくなくなるわ」
周囲の者が、びくりとした。
伊勢松坂屋のまとめ役は、すぐに間へ入った。
「戻りたい方は、戻っていただいて構いません」
声は穏やかだった。
「うちは、誰も引き止めません。飯だけ食べて帰る方もおります。寝床で一晩休んで、
戻る方もおります。本人が帰りたいと言えば、門はいつでも開けます」
僧兵たちは黙っている。
まとめ役はさらに続けた。
「ただし、帰りたくないと言っている方を、こちらから追い出すことはできません。
比叡山との話し合いでも、困窮して自ら来た者の一時保護は、大筋で認められております」
「まだ細かい文言は決まっておらぬ」
僧兵の一人が低く言った。
まとめ役は、懐から覚え書きの写しを取り出した。
「大筋は決まっております。三好方、六角方、松阪のお殿様、寺方も立ち会われました。
こちらはその大筋に従っております」
僧兵は返す言葉を探した。
だが、手は出せない。
昨日今日、上から何度も言われていた。
飯場に手を出すな。
伊勢松坂屋の荷を奪うな。
炊き出しを壊すな。
勝手に領民をけしかけるな。
揉め事を起こすな。
末端の僧兵たちも、さすがに分かっていた。
ここで手を出せば、また話が大きくなる。
だから、見ているしかない。
見ているしかないと分かっているからこそ、領民たちは少しずつ飯場へ入ってきた。
一人が入る。
その人が飯を食う。
追い出されない。
殴られない。
寝床の話までされる。
それを見た別の者が、また入る。
飯場の奥では、伊勢松坂屋の者が帳面をつけていた。
「名は?」
「戻るつもりはありますか?」
「家族は?」
「できる仕事は?」
「今日は飯だけですか。一晩休みますか」
無理に囲わない。
無理に働かせない。
だが、来た者の事情は必ず聞く。
寺の住職も、その様子を見守っていた。
「ここが踏ん張りどころですな」
住職が静かに言った。
まとめ役は頷く。
「はい。ここでこちらが乱れたら、全部崩れます」
「飯を出すだけ。帰る者は帰す。来る者は受ける。手を出されても、こちらからは荒立てない」
「難しいです」
「難しいから、踏ん張りどころです」
街道沿いでは、また別の火種が起きかけていた。
僧兵が道に立ち、飯場へ向かう者をじっと見ている。
すると、すでに伊勢松坂屋の飯場へ逃げ込んでいた若者が、たまらず声を上げた。
「なんでそんなことするんや!」
僧兵が睨む。
「何やと」
「飯食いに行くだけやろ! 腹減ってるだけやろ! なんで道に立って脅すんや!」
「脅してはおらぬ」
「そこに立ってるだけで怖いんや!」
その声に、周囲の空気が張り詰めた。
伊勢松坂屋の者がすぐに若者を下がらせる。
「言い合いはあかん。飯場へ戻り」
「でも」
「分かってる。分かってるけど、ここで揉めたら向こうの思うつぼや」
若者は悔しそうに唇を噛んだ。
僧兵も、手を出さなかった。
出せなかった。
その間にも、荷は入ってきた。
京都郊外から米俵。
大津から味噌樽。
草津から古布団。
堅田方面から魚と干物。
信楽焼きの器。
薪。
小さな釜。
帳面と木札。
荷車がごとごとと道を進み、船から小荷が下ろされる。
比叡山の僧兵たちは、それを遠巻きに見るしかなかった。
荷を止めれば、通行許可に反する。
奪えば、また襲撃である。
壊せば、三好と六角に文が飛ぶ。
だから、睨むだけだった。
四つの郊外拠点で、同じようなにらみ合いが広がった。
寺の境内を借りた炊き出し場。
道沿いの粗い飯場。
古い小屋を使った荷置き。
坂本へ向かう手前の小さな市。
どこも、立派な店ではない。
だが、釜がある。
飯がある。
寝床がある。
帳面がある。
港の方でも同じだった。
港の端に置かれた炊き出し場を、僧兵が遠巻きに囲む。港の顔役たちは面倒そうな顔をしながらも、
伊勢松坂屋が魚を買ってくれるため、完全には追い出そうとしない。
「港に店は出さん約束やろ」
「はい。炊き出しと買い付けだけです」
「なら、揉めんようにやれ」
「もちろんです」
そうして、港の端でも飯が出た。
僧兵は見る。
伊勢松坂屋は炊く。
逃げてきた者は食う。
戻る者は戻る。
戻らない者は郊外の飯場へ送られる。
それは戦ではなかった。
だが、確かに持久戦だった。
比叡山は、力を持ちながら手を出せない。
伊勢松坂屋は、弱く見えながら覚え書きと飯で踏みとどまる。
寺は、境内を貸した以上、腹を空かせた者を追い返せない。
夕方、京都郊外のまとめ役は、湯気の立つ釜を見ながら呟いた。
「ここが踏ん張り時やな」
寺の住職も頷いた。
「ええ。ここで焦れば負けます。ここで飯を切らせば、もっと負けます」
「飯は切らしません」
まとめ役は、帳面を閉じた。
「戻る者は戻す。来る者には飯を出す。働ける者には仕事を出す。僧兵には手を出させない。
こちらからも煽らない」
「難しいですな」
「難しいです。でも、旦那様ならそう言います」
その時、飯場の奥で子どもが椀を抱えて笑った。
僧兵たちは、まだ遠くで見ている。
伊勢松坂屋の者たちは、次の釜に米を入れた。
比叡山とのにらみ合いは、始まったばかりだった。
だが、湯気は止まらない。
飯の匂いは、街道に残り続けた。




