草津で一泊し、朝から品評会になる伊勢松坂屋。午後出発前に現状報告がくる。坂本の郊外で4か所炊き出し場所・拠点のきっかけ確保。港の端で炊き出し場所2か所確保。郊外は拠点化。港は飯を出して希望者は郊外へ。
その日は、草津で一泊することになった。
京都郊外の寺から戻り、草津の伊勢松坂屋の拠点へ入った時には、さすがの博之も
少し顔色が悪かった。首の傷もある。移動も続いた。お花は、拠点に着くなり、博之を座らせた。
「今日はここで休みます」
「いや、まだ文を」
「休みます」
「でも、堅田の方が」
「休みます」
三度目で、博之は黙った。
松坂の城主は、それを見てげらげら笑っている。
「もう散々悪いことしたんやから、そろそろ寝ろ」
「悪いことちゃいます。必要なことです」
博之は不満げに言った。
「交渉がまとまったから、早めに手を打ってるだけです」
「そういうのを、悪いこと言うんや」
「違いますって」
「まあ、一泊するのはええやろ」
松坂の城主は茶をすすりながら言った。
「ゆっくりしよう、という顔ではないがな」
「え?」
「この一日の動きを聞いてから帰ろうとしてるんやろ」
博之は一瞬だけ黙った。
お花の目が細くなる。
「旦那様」
「……ばれましたか」
「やっぱり」
お花は深いため息をついた。
「休むと言いながら、報告待ちですか」
「いや、休むのは休むで。ただ、今日のうちにどこまで道が通ったかだけ聞きたいなと」
「それを休むとは言いません」
「横になって聞くから」
「屁理屈です」
それでも、草津で一泊すること自体は決まった。
その夜、博之は布団に押し込まれた。枕元には麦茶、薬、文箱。お花は文箱を少し遠ざけた。
「手を伸ばさないでください」
「分かってる」
「分かっていない顔です」
「お花さん、俺の顔に厳しいな」
「顔に出す旦那様が悪いんです」
翌朝。
草津の拠点では、また小さな品評会のような朝飯になった。
京都郊外で博之に飯を見てもらった話がもう伝わっていたらしく、
草津の料理人たちも黙っていられなかったのである。
「旦那様、こちらも見てください」
「草津の朝飯です」
「小鉢を少しずつ用意しました」
膳の上には、小さな小鉢がいくつも並んだ。
湖の小魚を炊いたもの。
刻み菜の和え物。
味噌を薄く塗って焼いた豆腐。
少し甘めの煮豆。
漬物。
柔らかく炊いた飯。
湯気の立つ味噌汁。
「おお、ええな」
博之はすぐに顔を明るくした。
「草津は、旅人が多いから朝に小鉢ちょこちょこはええな。急ぐ者には飯と汁だけ。
余裕がある者には小鉢を選ばせる。値も分けられる」
「旦那様」
お花が横から言った。
「ほどほどにしてください」
「味見してるだけや」
「味見の顔ではありません。商売の顔です」
「飯を食いながら商売を考えるのが仕事やから」
「今は安静も仕事です」
松阪の城主は、煮豆をつまみながら笑った。
「お花の言うことを聞け。お前、昨日からずっと悪い顔しとるぞ」
「殿様まで」
そんなやり取りをしているうちに、昼前になった。
そろそろ出ようか、という時である。
草津のまとめ役が、息を切らせて入ってきた。
「旦那様、京都郊外から続報です」
「来たか」
博之はすぐに身を起こした。
お花が眉を上げる。
「急に元気になりましたね」
「報告やから」
「本当に分かりやすい」
まとめ役は文を開いた。
「京都郊外から比叡山、坂本へ向かう道筋に、炊き出し場が四つできました」
「四つ」
「はい。寺の境内を借りたところが二つ、道沿いの空き地が一つ、古い小屋を使ったところが一つです」
「ええやん」
「さらに、港の端に二か所、炊き出しと荷置きの場所ができました」
松阪の城主が笑った。
「早いな」
「早いのが命ですから」
博之は満足そうに頷いた。
「とりあえず、そこからやな」
ヨイチが帳面を広げる。
「京都郊外の方は、今後、横丁にしていく方針でよろしいですか」
「そう。郊外は横丁にしていったらええ。飯場、古布団、薪、湯、器、小さな市。
人が落ち着ける場所にする」
「港の近くは」
「港は押さえへんって話をしたからな。そこは炊き出しだけや」
博之は指を立てた。
「港の顔役の面子を潰すな。店は出さない。買い付けも、最初は控えめでええ。
ただ、来た人には飯を出す」
「逃げてきた者は」
「港の炊き出し場に置き続けるな」
博之はきっぱり言った。
「港に住み着かれると、港の者が嫌がる。住まれへん、戻れへん。
それと逃げてきた者は、まず飯を食わせる。その後、郊外の飯場へ移す」
「囲う形ですか」
「囲うと言うたらあかん」
博之はすぐに首を振った。
「仕事をあげる、や。飯場の掃除、薪運び、器洗い、布団干し、混ぜ飯の下ごしらえ。
できることからやらせる。京都郊外へ送るか、堅田へ送るか、様子を見て決める」
「本人が戻りたい場合は」
「戻るなとは絶対言うな」
博之の声が少し強くなった。
「そこは徹底しよう。飯を食って、体を休めて、戻りたいなら戻ればええ。うちは止めへん。
戻る人にまで『戻るな』と言うたら、それは引き抜きになる」
お花が静かに頷いた。
「大事な線引きですね」
「そう。来る人は受ける。でも、奪いには行かない。ここを崩すと、こっちが悪者になる」
松阪の城主が感心したように言った。
「お前、そこは妙に筋を通すな」
「妙に、は余計です」
「普段が悪い顔やからな」
「交渉の顔です」
さらに文が届いた。
「堅田の方も、港の端に船を泊める話が通りました。まだ大きな横丁ではありませんが、
近々、郊外に飯場を広げられそうです」
「よし」
博之は小さく笑った。
「堅田は港を使えるようになったのが大きい。横丁は焦らなくてええ。船が泊まる、
魚を買え、荷を下ろせるなら、次の手は打てる」
「堅田郊外から高島郊外へも、道を伸ばす話を始めています」
「そこや」
博之は帳面を指した。
「堅田の先は高島や。高島は、堅田ほど比叡山の影響が強くない。いきなり中心へ入らんでええ。
郊外に釜を置く。道筋の寺や空き地を借りる。小さい飯場からや」
「高島の先は、今津、塩津ですか」
「そうやな。近江の今津、塩津。その先に敦賀がある」
松阪の城主が、地図を覗き込んだ。
「そこから先は浅井の領分が絡むな」
「はい。そこは急ぎすぎんでええ。比叡山の覚え書きで行けるところと、
浅井の顔を立てなあかんところは分ける」
「朝倉への口添えも、まだこれからやしな」
「そうです。敦賀は大きい。日本海の口やから、焦って入ると揉める。今は高島郊外まで点を置く。
それで十分です」
お花は、博之の顔をじっと見た。
「旦那様」
「何や」
「今の指示で、今日は終わりですか」
「あと少しだけ」
「終わりですね」
「……終わりです」
部屋に笑いが起きた。
草津の者たちは、すでに動き出していた。
米を分ける者。
味噌樽を数える者。
古布団を干す者。
堅田へ向かう船の手配をする者。
大津へ文を走らせる者。
京都郊外へ追加の器を送る者。
皆、顔が明るかった。
比叡山に腹を立てているだけではない。自分たちの飯場が道を作っている。
その実感が、体を動かしていた。
「もう、こっから先はうちの者の腕次第や」
博之は、少し安心したように言った。
「旦那様の腕ではなく?」
ヨイチが聞く。
「わしはもう指示だけや。実際に釜を置くのも、飯を炊くのも、港の顔役に頭を下げるのも、
逃げてきた人を受けるのも、現場の者や」
お花が頷いた。
「それなら、旦那様は松坂に帰って安静ですね」
「はい」
松阪の城主が笑う。
「ようやく観念したか」
「草津で一日の動きは聞けましたからね」
「やっぱりそれが目的やないか」
「ばれましたか」
「最初からばれてる」
比叡山が文言を整えようと頭を抱えている間に、伊勢松坂屋の飯の道は、京都郊外から坂本、
堅田へ、そして高島郊外へ向かって伸び始めていた。
粗い屋根。
小さな釜。
湯気の立つ飯。
古布団。
帳面。
港の端に泊まる船。
それはまだ、町とは呼べない。
だが、道だった。
飯を食わせ、人を休ませ、荷を流す道。
比叡山が気づいた時には、その道にはもう、温かい飯の匂いが残り始めていた。




