話し合いが終わり三好六角の使者には取り決めの写しを渡し正式文書は後日とのことでお帰り頂く。翌日博之の指示で速攻拠点まがいのモノを作り始める
話し合いが終わると、ヨイチはすぐに帳面を広げた。
先ほど決まった覚え書きの大筋を、さらさらと写していく。
謝罪と弁償。
伊勢松坂屋を襲わないこと。
比叡山領分の通行許可。
京都郊外での炊き出しと小さな市。
困窮して自ら来た者の一時保護。
比叡山への貸し二つ。
浅井、朝倉への商いの口添え。
細かい文言は後日整えるにしても、まずは三好方と六角方に写しを渡しておく必要があった。
「こちらが本日の大筋でございます。細かく整えたものは、また改めてお送りします」
ヨイチが丁寧に頭を下げる。
博之も続いた。
「本日はお立ち会いいただき、ありがとうございました」
三好方の者は、写しを受け取って笑った。
「いやいや、しっかりなさってますわ。今日は面白いものを見せてもらいました」
六角方の者も頷く。
「語り草になるでしょうな。比叡山から、ここまでぶんどった飯屋がいた、と」
「ぶんどった言わんといてください」
博之が苦笑する。
「では、いただいた」
「もっと悪いです」
三好方と六角方は、本来なら互いに緊張を抱える相手である。だが、この場では妙に息が合っていた。
「まあ、今回はどちらも治安維持の立会人や」
「比叡山が派手にやらかしたからな」
「伊勢松坂屋さんのおかげで、こっちも顔が立つ」
「ほんま、ありがたい騒ぎや」
そう言って、両者は笑いながら帰っていった。
松阪の城主は、その背を見送りながら博之を見た。
「ここまでいろんな大名を巻き込んで遊んでるのは、お前ぐらいやぞ」
「褒められてますかね」
博之が首をかしげる。
お花が即答した。
「褒めているような、褒めていないような、です」
「どっちや」
「少なくとも、旦那様は安静にしてください」
「今それ言う?」
「今だから言います。もうちゃんと寝てください」
お花は有無を言わせなかった。
博之はまだ何か言いたそうだったが、首の傷を見られると黙るしかない。結局、
その夜は寺の一室に布団を敷かれ、半ば押し込まれるように寝かされた。
「俺、まだ文言を……」
「ヨイチがいます」
「明日の段取りを……」
「私が聞きます」
「ちょっとだけ……」
「寝てください」
「はい」
松阪の城主は廊下でげらげら笑っていた。
「お前、比叡山には強いのに、お花には弱いな」
「殿様も寝てください」
お花が振り返る。
「わしもか」
「はい」
「……はい」
翌朝。
寺の境内は、少し早くからにぎやかだった。
伊勢松坂屋の料理人たちが、朝の飯を炊いていた。釜から湯気が上がり、味噌汁の匂いが漂う。
昨日まで張り詰めていた空気が、少しだけほどけていた。
「旦那様、見てください」
料理人の一人が、誇らしげに言った。
「せっかく京都郊外まで来てくれたじゃないですか。うちの飯場の炊き方、見てください」
「おお、ええ匂いやな」
博之はすぐに近づこうとした。
お花が袖をつかむ。
「ほどほどにしてください」
「見るだけやん」
「見るだけで終わらないから言っています」
「ちょっと味見を」
「ほどほどに」
それでも、いつの間にか朝の飯は、小さな品評会のようになった。
混ぜ飯の炊き具合。
味噌汁の濃さ。
魚のあらの使い方。
漬物の切り方。
子ども向けに少し柔らかく炊いた飯。
料理人たちは、博之に見てもらえるのが嬉しくて仕方ない。博之も、なんだかんだで目を輝かせる。
「この混ぜ飯、少し塩が強いな。でも逃げてきた人らには、これぐらいがうまいか」
「昨日、泣きながら食べてた者が多かったので」
「分かる。腹が減ってる時は、薄い味より、ちょっと濃い味がしみるんや」
「旦那様」
お花がまた声をかける。
「はい」
「立ちっぱなしです」
「座ります」
境内の端には、比叡山の領分から逃げてきた人々が集まっていた。
彼らは、博之が今日にも帰ると聞いて、どうしても礼を言いたいと申し出てきたのだった。
一人の男が、泣きながら頭を下げた。
「本当に、ありがとうございます。もう、お体のこともあるでしょうし、松坂へ
帰られるんでしょうけど……本当に助かりました」
母親が子どもの肩を抱きながら続ける。
「この子が、飯を食べて眠れました。一生忘れません」
博之は困ったように笑った。
「いやいや、適当に忘れてええで」
人々が顔を上げる。
「忘れて、これからの暮らしを良くしていけたら、それでええ。昔つらかったことを一生抱えるより、
今日の飯と明日の仕事を大事にした方がええ」
男の目から、また涙がこぼれた。
「でも、私らは……」
「うちで働いてくれるなら、それはそれで、うちの家族みたいなもんや。わしがちゃんと
してる限りは、何とか頑張る」
「私たちも、めっちゃ頑張ります」
別の若者が、拳を握った。
博之は苦笑する。
「張り切りすぎたら、途中で疲れるで」
「でも、飯を食わせてもらいましたから」
「飯の恩は、働きながら少しずつ返したらええ。無理して倒れたら、また飯を食わせなあかん」
周りに小さな笑いが起きた。
お花はその様子を見て、少しだけ表情を和らげた。
出立の前、博之は京都郊外のまとめ役を呼んだ。
「この話、大筋で決まった。だから、さっさと動くで」
「はい」
「覚え書きの写しを手元に置け。三好、六角、寺方が立ち会ったことも書いてある。
比叡山が何か言ってきたら、それを見せる」
「分かりました」
「そして、郊外に拠点を作ってしまえ」
まとめ役が目を瞬かせた。
「今すぐですか」
「今すぐや」
博之は即答した。
「向こうが文言を曖昧にしようとする前に、実態を作る。雑な横丁でええ。
立派な店はいらん。釜、屋根、布団、器、荷置き場。とりあえず点々と何か所か、
さっと作ってしまえ」
「物資は」
「一気に入れろ。京都郊外の他の店、大津、草津、その辺と文をやり取りして、
米、味噌、布団、薪、器を流す。坂本、堅田まで道を通すつもりで動け」
「比叡山が止めてきたら」
「昨日決まった話です、で押せ」
松阪の城主が横で笑った。
「その辺が抜かりないよな、お前は」
「ここは速さが勝負でしょう」
「ほんま、頭領の腰の軽さ勝ちやな」
「飯屋ですけどね」
「やってることは、もう飯屋だけやない」
お花がじっと博之を見る。
「旦那様。指示はそれで終わりですか」
「あと少し」
「あと少し、が長いんです」
「ほな、最後に一つだけ」
博之はまとめ役に言った。
「逃げてきた人を抱え込みすぎるな。働き口、寝床、飯の量、全部帳面につけろ。
無理に受けると、こっちが潰れる」
「はい」
「でも、来た人は追い返すな。まず飯。話はそれからや」
「承知しました」
そうして、博之たちは帰路についた。
その指示の後に。
京都郊外では、伊勢松坂屋の動きが一気に早まった。
寺の境内だけでなく、道沿い、港の外れ、坂本へ向かう手前、堅田へつながる道筋に、
小さな飯場と市の形ができ始める。
粗い屋根。
簡単な釜。
混ぜ飯と味噌汁。
信楽焼きと伊勢の小物。
古布団の寝所。
薪置き場。
帳面をつける小机。
そこへ比叡山の僧が慌ててやって来た。
「勝手にそんなことをしてもらっては困る!」
伊勢松坂屋のまとめ役は、覚え書きの写しを取り出した。
「いやいや、昨日の話し合いで大筋は決まりましたよ」
「まだ細かい文言は整っておらぬ!」
「大筋は決まりました。三好方、六角方、寺方、松坂のお殿様も立ち会っております」
「それでも、これほど早く……」
「速さが命、と旦那様に言われておりますので」
周囲の者たちがくすりと笑う。
僧は、苦し紛れに言った。
「あまり欲を張ると、仏罰が下りますぞ」
まとめ役は、少し困ったように笑った。
「それ、旦那様にも言われてましたけど」
「何と答えた」
「首に食らってますんで、と」
その場が大爆笑になった。
逃げてきた者も、飯を食っていた者も、伊勢松坂屋の若い衆も、寺の小僧まで笑った。
比叡山の僧は、顔を真っ赤にした。
しかし、何も言い返せなかった。
目の前には、覚え書きの写しがある。
背後には、三好と六角の立ち会いがある。
そして何より、飯を求めて並ぶ者たちがいる。
伊勢松坂屋は、刀を抜かない。
ただ、釜を据える。
飯を炊く。
帳面をつける。
先に場所を作る。
その速さに、比叡山はまた一歩、遅れたのである。




