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お寺や神社で炊き出ししてから自身の従業員への慰労をしていないことに気づき湯あみのタダ券と年越しのご飯振る舞い会を催す

寺や神社で炊き出しを終えたあと、博之はふと気づいた。

「……外には施したけど、うちの者には何もしてへんな」

 その一言で、また幹部たちが集められた。

「木札を作る」

 博之が言うと、ヨイチが首をかしげた。

「木札? それ、どうするんですか」

「二百枚ほど作る」

「二百枚も?」

「湯あみや」

 博之は少し得意げに言った。

「高い方の湯浴み、みんな一回ただにしようと思ってる」

 お花が少し目を丸くした。

「高い湯あみを、ですか」

「せや。男衆も女衆も、一回は使えるようにする」

 ヨイチは笑いながらも、すぐに現実的な顔をした。

「でも、それ一気に来たら大変ですよ。せっかく普段高い銭払って入ってる者もおるんやから、

 混んだら機嫌悪うなります」

「そこは分ける」

 博之は頷いた。

「日を分ける。屋敷ごと、横丁ごとに順番を作る。ゆるっと入って、

 麦茶でも飲んで、蜂蜜饅頭でも食って、少し休んでもらう」

「蜂蜜饅頭もただですか?」

「そこは一つだけな」

「旦那、太っ腹やな」

「太っ腹ちゃう」

 博之は即座に返した。

「年忘れや」

 さらに、博之は続けた。

「それと、飯もやる」

「また飯ですか」

「うちは飯屋やからな」

 従業員たちは日々、客にうまい飯を出している。親子丼、天ぷら、握り飯、田楽、鶏串、

 すり身串、あら汁。だが、作る側は忙しく、自分たちがゆっくり食べて楽しむ機会は意外と少ない。

「年の瀬くらい、自分らでうまいもん食おうや」

 博之はそう言った。

「鍋でもやる。天ぷらも出す。親子丼も少し。鯛のあら大根、浜すり身串、魚すり身の平揚げ。

 この辺も出す」

 場所は、松坂の郊外の横丁、松坂の町場、九鬼様の港横丁。

 それぞれで働く者たちに振る舞う。

 一方、街道沿いの小さな拠点では、同じように飯会を開く余裕がない。人も少なく、移動も多い。

「街道沿いの者には、一人百文ずつ配る」

「百文?」

 ヨイチが驚いた。

「年越しのお駄賃みたいなもんや」

「旦那、ほんま太っ腹ですやん」

「ちゃうで」

 博之は真面目な顔で言った。

「今あるうちに配っといて、わしが狙われた時に皆に守ってもらおうとしてるんや」

 その場にいた者たちは、一瞬黙った。

 それから、ヨイチがにやっと笑った。

「旦那、それ本音もあるやろうけど、実はちょっと照れてるやろ」

「なんで分かんねん」

 博之が言うと、皆が笑った。

「長い付き合いですからな」

 侍の一人も笑う。

「旦那は、そういうところあります」

 古参の若い子が、ぽつりと言った。

「俺らを拾ってくれた時も、そうでしたもんね」

 博之は少し言葉に詰まった。

「……まあ、ええやろ」

 当日、湯あみの木札は屋敷ごとに分けて配られた。

「今日はこの屋敷の女衆」

「明日は港横丁の男衆」

「その次は町場の下働き」

 お花が中心になって順番を整えたため、大きな混雑は避けられた。

 高い湯あみに入った女衆たちは、畳の上で足を伸ばし、麦茶を飲み、蜂蜜饅頭を少しずつかじった。

「これ、ただでええんですか」

「年忘れやって」

「ありがたいなあ」

「普段は高いから、たまにしか来られへんもんな」

 湯気の中から、そんな声が聞こえてきた。

 特に女衆には好評だった。

「外の湯屋もええけど、ここは落ち着くわ」

「知ってる人ばっかりやから安心やし」

「畳でゆっくりできるのがええ」

 その話を聞いて、博之は少しだけ満足そうにした。

 そして、夜には飯会が開かれた。

 大鍋には鯛のあら大根。

 別の鍋には小魚のあら汁

 親子丼は小ぶりの椀で出し、天ぷらは揚げたてを少しずつ配る。なす、ごぼう、大葉、

 しいたけ、山菜。

 浜すり身串は、揚げたあと軽く炙って熱々にした。

 平たいすり身揚げは、一口大に切って、醤油をほんの少しつけて出す。

「うちの店、こんなうまいもん出してたんか」

 下働きの一人が驚いたように言った。

「いつも作ってる側やと、ゆっくり食えへんもんな」

「天ぷら、ほんまにうまい」

「親子丼、これ客が頼むの分かるわ」

「すり身串、魚やのに団子みたいや」

 皆が笑い、食べ、話した。

 普段は別々の横丁で働く者たちが、同じ鍋を囲む。古参も新入りも、侍も女衆も、子ども

 上がりの若い衆も、同じ飯を食う。

 その場には、妙な一体感があった。

「ええ年越せそうやな」

 誰かが言う。

「今年、ほんまに飯食えるようになったな」

「布団も買えたし」

「岩宮もただで入れたしな」

 笑い声が広がる。

 博之は少し離れたところで、その様子を見ていた。

 ヨイチが隣に来て、茶を飲みながら言う。

「旦那、これで帰属意識上がりますな」

「帰属意識って言うな」

「でも、そうやろ」

「まあな」

博之は認めた。

「うちの者が、うちで働いてよかったと思えるなら、それはええことや」

 その時、女衆の方から声が聞こえた。

「湯あみただになるん、ほんま嬉しいわ」

「またやってほしいな」

「旦那に言うとこ」

 博之は少し照れくさそうに頭をかいた。

「俺もこれでモテへんかな」

 ヨイチは即座に笑った。

「旦那、言われたら逃げるやろ」

「逃げへんわ」

「いや、逃げる。だんだん距離取るやろ」

 お花も近くで聞いていて、くすくす笑った。

 博之は苦笑する。

「ほんまにモテへん人生過ごしてきたからな。急に金持ち出したら怖いねん」

 お花が柔らかく笑う。

「旦那らしいですね」

「笑うところちゃうで」

「いえ、少し安心しました」

「何がや」

「旦那が、まだ普通に怖がる人で」

 その言葉に、博之は少し黙った。

 金は増えた。

 人も増えた。

 横丁も増えた。

 けれど、自分の中身まで急に変わったわけではない。

 それでいいのかもしれない。

 博之は、鍋の湯気の向こうで笑う従業員たちを見た。

 外にも飯を振る舞う。

 だが、内にも飯を振る舞う。

 町に根を張るためには外の評判がいる。

 けれど、店を支えるには内の心もいる。

「来年も食っていけるようにせなあかんな」

 博之がぽつりと言うと、ヨイチが頷いた。

「まずは年越しですな」

「せやな」

 十二月の冷えた夜、伊勢松坂屋の屋敷には、湯浴みの湯気と、鍋の湯気と、人の笑い声が満ちていた。

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