伊勢の街道沿いに拠点を作るの忘れていたから対処する。年末の市は芸人呼ばずに温かいものの炊き出しをしよう!
伊勢の話ばかりしていたせいで、博之はふと気づいた。
「……あかん」
帳面を見ていた手が止まる。
「伊勢に攻め込むことばっかり考えて、伊勢の街道に横丁作る準備、抜けてたわ」
それを聞いたヨイチは、しばらく黙ってから呆れたように笑った。
「旦那、そういうところ抜けてますよね」
「うるさいわ」
「伊勢や尾張や全国や言うて、足元の横丁忘れてたら世話ないですわ」
「ほんまやな」
博之は苦笑しながら、すぐに人を呼んだ。
ただ、伊勢松坂屋の者たちはもう慣れていた。
伊勢の中心へ入るのは難しい。神宮、寺社、地元の商人、町の顔役。筋を通す相手が多い。
だが、街道沿いの横丁なら、やることは分かっている。
田楽、鶏串、団子、弁当、握り飯。
松坂港へ向かう街道でやってきた形を、そのまま伊勢方面の道へ応用すればいい。
「火を置く場所は?」
「風向き見て決めます」
「握り飯は?」
「梅、たくあん、紫蘇、茄子。粗汁握りは魚が入る時だけです」
「弁当箱は?」
「足ります。笹も用意してます」
古参たちは、博之が細かく言わなくても動いた。
ヨイチはその様子を見て、少し感心したように言う。
「もう、みんな慣れたもんやな」
「ありがたいわ」
「旦那が抜けても、飯がうまいからなんやかんや回るんでしょうな」
「それ褒めてるんか」
「半分ぐらいは」
そんなやり取りをしながらも、準備は進んでいった。
冬も近い。
十二月に入る頃には、布団もかなり行き渡っていた。良い布団を買った者もいれば、
普通の布団を選んだ者もいる。最低限の寝床しかなかった頃に比べれば、屋敷の中の空気は
ずいぶん落ち着いていた。
「今年は年を越せそうやな」
誰かがそう呟いた。
その言葉を聞いて、博之は少し黙った。
伊勢松坂屋の中の者は、飯がある。寝床がある。布団もある。湯浴みもある。
だが、外にはまだ食えない者がいる。
雇ってくれと来たものの、採用から外れた者もいる。途中で辞めた者もいる。
そもそも声をかけられなかった者もいる。
「十二月の初めは、炊き出しをしよう」
博之は言った。
「芸人呼ぶより、年越し前に温かい飯を食うてもらった方がええ」
場所は四つ。
郊外の寺。
松坂の町場の寺。
城下近くの神社。
そして、九鬼様の筋を通した松坂港。
出す飯は、ただの粥ではない。
鯛のあら大根。
小魚と野菜のあら汁。
浜すり身串。
魚すり身の平揚げ。
そして、混ぜ飯の握り飯。
「正月の目玉にしようと思ってたけど、先に少し出す」
博之は言った。
「飯の紹介も兼ねる」
当日、寺の境内には大鍋が据えられた。
湯気が立ち、生姜とねぎ、味噌と魚の匂いが冷たい空気に広がる。
大根に魚の旨味がしみている。
小魚のあら汁は、鯛ほど上品ではないが、力強い味がした。
浜すり身串は、三つ刺しにして軽く炙り、熱々のまま配った。
「これは何や」
「魚をすって、揚げたもんです」
「魚を団子にしたんか」
「そうです。アジやイワシです」
子どもが一口食べて、顔を明るくする。
「うまい!」
寺の住職も、あら汁をすすりながら感心していた。
「これは、もったいないの精神が詰まった飯ですな」
「そう言うてもらえるとありがたいです」
「魚の端を捨てず、すって揚げる。骨や頭を炊いて汁にする。しかも、うまい」
住職は笑う。
「錬金術ですな」
博之も笑った。
「この子にも言われましたわ」
横にいた古参の子が少し照れる。
住職は続けた。
「戦国大名が鉄砲や新しい兵器を欲しがるのも分かりますが、これは松坂屋らしい力ですな」
「松坂屋らしいですか」
「飯と商いで、人を動かす力です」
その言葉に、博之は少しだけ胸を張った。
神社でも、港でも、反応は似ていた。
港の者は、あら汁に驚くよりも、すり身串に食いついた。
「これ、小魚から作れるんか」
「端の身でもいけます」
「ほな、今まで安かった魚にも値がつくな」
「うちは買います。臭いところを取って、飯にします」
「面白いこと考えるなあ」
九鬼方の者も、機嫌よく食べていた。
「これを港横丁で出すなら、うちの者も食うぞ」
「ぜひお願いします」
博之は頭を下げる。
炊き出しの終わり頃、ある老人があら大根の椀を持って言った。
「年の瀬に、こんな温かいもん食わせてくれて、ありがたいこっちゃ」
博之は軽く頭を下げた。
「商売がうまくいってる時には、やらせてもらわんと」
ヨイチが横で小さく笑う。
「旦那、また本音言うとき」
博之は構わず続けた。
「うちも人を雇ってます。けど、採用から外れた人もおるでしょう。働きたい言うて来ても、
全部は取れへん」
博之の声は、少しだけ低くなった。
「私も三月頃までは、飯がまともに食えなかったんです。いらんと言われる気持ちは分かります」
断られると、嫌な気持ちになる。
自分が否定されたように感じる。
そういう者が近くに住んでいる。
そのままにしておけば、恨みになることもある。
「だから、こうして飯を出すんです」
博之は正直に言った。
「別に、うちら悪いことやってるわけやないで、ということを知ってもらうためでもあります。
敵を作らんための慈善活動みたいなもんですわ」
住職はその言葉を聞いて、にやりと笑った。
「そういう腹の内を隠さんところが、旦那のええところですな」
「ええところですかね」
「ええところです。きれいごとだけ言われるより、よほど信用できます」
お花も横で穏やかに笑っていた。
「年の瀬に、温かい飯を食べてもらえるなら、それだけでも意味があります」
「そうやな」
博之は湯気の立つ鍋を見た。
金は使った。
魚も米も味噌も使った。
だが、それは消えたのではない。
腹に入り、評判になり、少しだけ敵意を減らす。
それが、博之の考える守りだった。
十二月の初め、松坂の町場には冬の冷たい風が吹いていた。
けれど寺の境内には、あら汁の湯気が上がり、子どもたちの声が響いていた。
伊勢松坂屋は、年の瀬を前にして、また一つ町に根を張ろうとしていた。




