十一月の中旬。品評会の飯がうまいのとすごいので古参衆が頑張りだす。帳場でなかなか金が減らないと嘆く博之と呆れるヨイチ
十一月の二週目が過ぎる頃、伊勢松坂屋の中には、妙な熱気があった。
きっかけは、あの食事の品評会だった。
鯛のあら大根。小魚と野菜のあら汁。アジとイワシのすり身団子串。生姜入り、大葉入り、
ごぼう入りの平たいすり身揚げ。さらに醤油を少しつけて食べるやり方まで試した。
古参たちは、最初こそ「また旦那が変な飯を作った」と笑っていたが、一口食べると
顔つきが変わった。
「これは売れる」
「港で出したら絶対食うやつおる」
「城下でもいけますよ」
「魚の端がこれになるんやったら、すごいですわ」
そういう声が次々に出た。
博之自身も手応えを感じていた。
松坂港、九鬼様の膝元で作った横丁は、まだ白黒で言えばトントンだった。場所代、人の配置、
仕入れ、挨拶回り、細かな費用が重く、すぐに黒字とはいかない。
だが、それでよかった。
港の横丁は、利益を出す前に、まず足場を作る場所だった。
魚を買う。
港の者に飯を食わせる。
九鬼様の者に顔を覚えてもらう。
余り魚や端材を買い取って、飯に変える。
そこに価値があった。
一方、ほかの店は順調だった。
郊外の横丁、松坂の城下の横丁、街道沿いの店、握り飯屋、湯あみ。どこも大きく崩れていない。
特に、松坂の城下で出し始めたすり身の天ぷらは、思った以上に評判が良かった。
「これ、魚なんですか」
「団子みたいやな」
「醤油つけたら飯が進むわ」
「ごぼう入り、食感がええ」
最初は物珍しさで買っていた客が、二度三度と買いに来るようになった。
港では串に刺して売る。
城下では平たく揚げて切って出す。
弁当には小さめに入れる。
出し方を変えるだけで、同じすり身でも別の商品になる。
それが、博之にはたまらなく面白かった。
「やっぱり飯は形やな」
そう呟きながら、彼は帳面に数字を書き込んでいく。
ただ、この二週間は出費も多かった。
伊勢神宮と周辺の寺社へ持っていく寄進の準備。
伊勢へ出す部隊のための五万文。
九鬼様、北畠様への常納金。
寺社への挨拶。
人件費。
新しい者の湯浴み、着物、飯、寝床。
椎茸、養鶏場、油、魚、薪、炭、運搬。
普通なら、それだけでかなり銭は減るはずだった。
ところが、帳面をまとめてみると、思わぬところで数字が跳ねていた。
布団である。
前の二週間で、伊勢松坂屋は冬支度として、良い布団と普通の布団を合わせて百人分ほど
仕入れていた。
ただし、これは施しではない。
博之は何度も言っていた。
「最低限の寝床は用意する。けど、良い布団は買え」
千五百文で仕入れたものは二千五百文で売る。
千文で仕入れたものは千五百文で売る。
運搬、保管、見立て、手間賃込みである。
城下の布団屋で自分で買えば、もっと安いかもしれない。けれど、郊外に住む下の者や
女衆にとって、布団を買いに行き、選び、運ぶのは面倒だった。
それに、伊勢松坂屋で買えば、外れを掴みにくい。
お花や古参が見立ててくれる。
寝床まで届く。
必要なら給金から少しずつ払える。
そういう便利さもあって、思った以上に売れた。
いや、売れたどころではない。
ほぼ完売だった。
「……なんでや」
博之は帳面を見ながら、低く呟いた。
布団の販売だけで、十四万文ほど銭が増えている。
冬前だから当然といえば当然だ。飯と寝床が確保され、給金も手元に残るようになった者たちが、
少し良い眠りを求めて金を使った。
だが、博之からすると、銭を減らすために仕入れたものが、さらに銭を呼び込んだ形だった。
「なんで増えるねん……」
博之は頭を抱えた。
横で帳面を覗いていたヨイチが、呆れた顔をした。
「旦那、もうアホなんか賢いんか分からんようになってきたわ」
「どういう意味や」
「銭を減らそうとして布団仕入れて、倍で売って、完売して、さらに銭増やしてるんやろ」
「それは……そうやけど」
「でも飯作ることに関しては天才的やな」
「そこだけかい」
「いや、そこが一番すごいんや」
ヨイチは平たいすり身揚げを思い出すように笑った。
「あれ、ほんまにうまかったで。魚の端があれになるなら、そら港も食いつくわ」
お花も横でくすくす笑っていた。
「布団も、皆が喜んで買ったのですから、悪いことではありませんよ」
「悪いことではないけどな」
博之は帳面を指で叩いた。
「銭がまた集まりすぎとる」
最終的な残高は、すべて合わせて六十四万九千文。
伊勢へ持たせる五万文を引いても、寄進や常納金、人件費を引いても、なおそれだけ残る計算だった。
部屋の空気が少し静まった。
六十四万九千文。
あまりにも大きな数字だった。
三月にボロ小屋で豚汁を始めた頃を思えば、信じられない額である。
「旦那」
お花が静かに言った。
「これは、もう本当に一つの店の銭ではありませんね」
「せやな」
博之は深く息を吐いた。
「人を抱える銭や。拠点を増やす銭や。飯を振る舞う銭や」
「それに、守るための銭です」
侍の一人が言った。
博之は頷いた。
「そうや。貯め込む銭やない」
それでも、怖いものは怖い。
銭があれば人は寄ってくる。
味方も寄ってくる。
だが、敵も寄ってくる。
「伊勢へ出すのは、やっぱり急がなあかんな」
博之は呟いた。
「松坂だけに抱えたら危ない。港も伊勢も、早めに根を張る」
ヨイチが笑った。
「また銭を使う理由ができましたな」
「理由やない。必要や」
「はいはい」
博之はむっとしたが、すぐに笑った。
銭は増えた。
飯の評価も上がった。
すり身天も、混ぜ飯も、湯あみも、布団も、想像以上に動いている。
だが、まだ一年も経っていない。
浮かれるには早すぎる。
「まずは正月や」
博之は言った。
「港で振る舞い飯。伊勢へ寄進。松坂でも飯を出す。銭を飯に変えて、人に食わせる」
ヨイチが頷いた。
「それが旦那らしいわ」
「銭のまま置いといたら怖いからな」
お花が笑う。
「でも、飯にすると、また評判になって銭が戻ってきそうですね」
博之は一瞬固まった。
「……それ言うな」
部屋に笑いが広がった。
十一月の冷えた夜、帳面の上には重たい数字が残っていた。
六十四万九千文。
それは成功の証でもあり、危うさの証でもあった。
博之はその数字を見つめながら、また次に何を飯に変えるかを考え始めていた。




