比叡山との話し合いの続き。大きな貸し2つを認識すること。京都郊外、比叡山の中心以外の街道や港の端での商いや炊き出し・市の許可をくれ!
話し合いは、僧兵たちの処遇だけでは終わらなかった。
奈良の寺へ一時預ける。
証言を取る。
延暦寺は処分を約束する。
大津での件についても、行き過ぎがあったと認める。
そこまでは決まった。
だが、博之はまだ黙っていた。
京都郊外の寺の一室。
真ん中には寺の住職。
片側には博之、松坂の城主、三好方、六角方。
もう片側には、延暦寺の偉い僧たち。
場が少し落ち着きかけた時、博之が静かに口を開いた。
「それで」
延暦寺側の僧が顔を上げる。
「首の件と、今回の騒動。どう落とし前をつけるつもりですか」
空気が、また重くなった。
延暦寺の上座の僧は、深く息を吐いた。
「比叡山としては、まず正式に謝罪いたします。大膳亮殿の首に刃を当てた件、飯場を荒らした件、
そして今回、末端の者が領民をけしかけた件。いずれも行き過ぎでございました」
「はい」
「費用についても弁償いたします。壊したもの、使わせた米や味噌、布団、手間賃、炊き出しに
かかった分も含め、相応の銭を出します」
「はい」
「さらに、今後、延暦寺の者は伊勢松坂屋の飯場を襲わぬ。妨げぬ。暴力を用いぬ。
その旨の覚え書きを作りましょう」
そこまで言うと、延暦寺側は一応、筋を示したつもりだった。
謝罪。
弁償。
再発防止の覚え書き。
普通なら、これで話はまとまる。
だが、博之は表情を変えなかった。
「それは当たり前です」
延暦寺の僧が目を細める。
「当たり前、とは」
「謝る。壊したものを弁償する。もう襲わないと書く。そんなもん、落とし前やなくて、
最低限の後始末でしょう」
声は荒くない。
だが、冷たかった。
「私は、首を切られそうになったんですよ」
博之は、自分の首筋に触れた。
「大津で、飯場を荒らされ、刃を向けられた。官位をいただいて朝廷へ礼をした帰りにです。
そちらは、伊勢松坂屋から一千万文、一万貫を取ろうとした。力で脅して、金を取ろうとした」
延暦寺側の僧たちは黙った。
「逆の立場なら、どうします」
博之の声が少し低くなった。
「比叡山の偉いさんが首を切られそうになった。飯場を荒らされた。さらに末端の者を
けしかけられて、物資を奪われかけた。そうなったら、搾り取れるだけ搾り取ろうとするでしょう」
三好方の者が、にやりと笑った。
六角方の者も、腕を組んだまま頷く。
松坂の城主は、露骨に面白そうな顔をしていた。
「大膳亮殿」
延暦寺の上座の僧が、苦しそうに言った。
「我らにも、差し出せるものには限りがございます」
「でしょうね」
「銭を積めと言われれば、積む用意はいたします。米や物資も出しましょう。
しかし、領分や港の権利、寺領の商いに深く踏み込まれるとなれば、こちらも簡単には飲めませぬ」
「分かってます」
博之はあっさり言った。
「無茶苦茶を言う気はありません。本当なら、坂本や大津、堅田の港の権利。
あるいは比叡山領分での商い許可。そこまで言いたいところです」
延暦寺側の顔色が変わった。
「しかし、それは無理な話でしょう」
博之は続けた。
「比叡山にも面子がある。寺領もある。港や市の権利をいきなり寄こせと言えば、
話はまとまらない。だから、それは言わないでおきます」
松坂の城主が小さく笑った。
「言わないでおく、か」
「はい。私は優しいので」
この場で博之は淡々と続けた。
「代わりに、大きな貸しを二つください」
「貸し、ですか」
「はい。今後、伊勢松坂屋が比叡山に二度、融通を頼む。その時は、よほど無茶な話でない限り、
聞いてもらう」
延暦寺側がざわついた。
「内容も決まっておらぬ貸しを、二つもですか」
「そうです」
「それは、あまりに曖昧では」
「曖昧だから価値があるんです」
博之は、まっすぐ相手を見た。
「こちらは、首を切られそうになった。今回も飯場を襲われかけた。しかも領民を使ってです。
それに対して、謝罪と弁償だけで済ませるのは安すぎる。とはいえ、領分や港を寄こせとは言わない。
だから、貸し二つです」
住職が静かに頷いた。
「確かに、形としては残しやすいかもしれませぬな」
三好方の者も言った。
「銭や土地より、比叡山の面子は保ちやすい」
六角方の者が続ける。
「ただし、後で揉めんよう、文にせなあかんな。伊勢松坂屋から比叡山へ、
今後二度、相応の融通を求めることができる。比叡山は正当な理由なく拒まぬ。そんな形か」
延暦寺側は渋い顔をした。
「それだけではありません」
博之はさらに言った。
「比叡山領分の通行許可が欲しい」
「通行許可」
「伊勢松坂屋の荷、人、文が通ることを認めてください。もちろん、
寺領を荒らすつもりはありません。税や通行料が必要なら、筋に従います。
ですが、理由もなく止める、荷を奪う、人を脅す、そういうことはしないでいただきたい」
延暦寺の僧は黙り込んだ。
「本来なら、領分内での商い許可も欲しいところです。港の権利も欲しい。でも、
それは言わないでおくと言いました」
「……では、何を求めるのです」
「郊外での商い許可です」
博之は、はっきりと言った。
「京都郊外、寺の境内、比叡山を抜ける道沿い、港の外れ。比叡山の中心に踏み込むわけでは
ない場所で、炊き出しと小さな市を行うことを認めてください」
「それでは、人が集まります」
「飯があるところに人は集まります」
「こちらの領民が流れる」
「戻りたい人は戻ればいい。うちは止めません」
博之の声が、少し強くなった。
「ただし、逃げてくる民は受け入れます」
延暦寺側の空気が変わった。
「それは困る」
「困っているのは逃げてくる人です」
「我らの領民です」
「では、戻りたいと思える暮らしにしてください」
松坂の城主が、そこで口を挟んだ。
「民に飯を食わせられんのに、逃げるなと言うのは無理やで」
延暦寺の僧は唇を噛んだ。
博之は続けた。
「うちは、来い来いと誘いません。比叡山から人を引き抜く文も出しません。ただ、
腹を空かせて来た人に飯を出す。寝床を与える。働ける人には仕事を振る。それを
妨げないでください」
「それを認めれば、逃散を認めることになります」
「逃散ではありません。困窮者の一時保護です」
三好方の者が、思わず笑った。
「言い方がうまいな」
六角方の者も頷く。
「文にするなら、その方が通りやすい」
延暦寺の上座の僧は、額に汗を浮かべた。
「この件は、持ち帰らせていただきたい」
博之は即座に首を横に振った。
「今、決めてください」
「今、ですか」
「はい。今です」
「それは、あまりに急です」
「急がせたのは、そちらです」
博之の目が細くなった。
「首に刃を当てた。謝罪を先延ばしにした。逃げた領民を返せと言った。
末端が飯場を襲わせようとした。こちらは、そのたびに飯を出し、記録を取り、待ちました。
これ以上、持ち帰って時を稼がれるのは困ります」
延暦寺側は青ざめた。
ここで持ち帰れば、比叡山はまた時間を稼げる。
仲介を探せる。
文言を削れる。
貸し二つも、通行許可も、逃げる民の受け入れも、曖昧にできる。
博之は、それを許さなかった。
「全部を細かく決めろとは言いません。けれど、大筋は今、ここで合意してください」
「大筋とは」
「一つ。謝罪と弁償。二つ。今後、伊勢松坂屋を襲わない、妨げない覚え書き。三つ。
伊勢松坂屋が比叡山へ二度、相応の融通を求めることができる。四つ。比叡山領分の通行を認める。
五つ。京都郊外や寺社境内、港の外れでの炊き出しと小さな市を妨げない。六つ。
自ら来た困窮者は、伊勢松坂屋が一時保護することを認める」
ヨイチが筆を走らせる。
住職も頷いた。
三好と六角の者たちも、証人としてその文面を見ている。
延暦寺の僧たちは、互いに顔を見合わせた。
どれも痛い。
だが、どれも断りにくい。
謝罪と弁償は当然。
襲わない覚え書きも当然。
通行許可は、完全な商い許可ではない。
郊外の炊き出しと市も、中心部ではない。
困窮者の一時保護も、逃散の奨励ではない。
貸し二つだけが不気味だが、それも領分や港を取られるよりはましに見える。
延暦寺の上座の僧は、長く沈黙した。
やがて、絞り出すように言った。
「……大筋としては、受けましょう」
博之は、そこで初めて少し笑った。
「ありがとうございます」
「ただし、貸し二つについては、無茶な要求は認めませぬ」
「もちろんです。無茶は言いません」
松坂の城主が横で吹き出した。
「その顔で言うと信用ならんな」
三好方も六角方も笑った。
延暦寺側は笑えなかった。
博之は、首筋に触れながら静かに言った。
「これで、ようやく最初の落とし前です」
その一言に、延暦寺の僧たちはまた青ざめた。
最初の。
つまり、これで終わりではない。
ただ、これ以上騒ぎを広げないための、最初の杭を打ったにすぎない。
京都郊外の寺の外では、炊き出しの釜が湯気を上げていた。
比叡山がどれだけ面子を守ろうとしても、飯を求める者の腹は待ってくれない。
その現実を前に、延暦寺はついに、伊勢松坂屋の飯の道を完全には止められないと
認めるしかなかった。




