堅田では町の人の警戒もある中炊き出しと市を開くことを許される。珍しいものがあり、飯も美味い。銭も回してくれる。一方の京都郊外では比叡山延暦寺の者が領分から逃げた人を返せとくる
一方、堅田では、伊勢松坂屋の炊き出しに少しずつ人が集まるようになっていた。
最初は、港の者たちの警戒が強かった。
延暦寺との関係がある。
余計な揉め事に巻き込まれたくない。
伊勢松坂屋の飯はありがたいが、店を出されるのは困る。
そういう空気が、港にははっきりあった。
堅田を任されている伊勢松坂屋のまとめ役も、それは分かっていた。だから、
無理に店を出そうとはしなかった。
「店は、今すぐでなくて結構です」
港の顔役たちに、まとめ役はそう頭を下げた。
「ただ、うちとしては買い付けをさせていただきたいのです。魚、干物、荷、港で余るもの。
使えるものがあれば、きちんと銭を払って買わせていただきます」
「売りに来たんやないのか」
「売りもします。ただし、いらんものを押しつけるつもりはございません。信楽焼き、瀬戸焼き、
伊勢の小物などを少し持ってきております。見るだけならただです。
気に入ったものがあれば、その時だけ買っていただければ」
「見るだけなら、まあ減るもんやないな」
「それと、近くのお寺をお借りして、小さな市のようなものと炊き出しをしたいと思っております」
顔役たちは、互いに顔を見合わせた。
「炊き出しなら、まあ……」
「困っとる者もおるしな」
「店を構えるわけやないなら、様子を見るか」
そうして、堅田の近くの寺を借りて、伊勢松坂屋は小さな市と炊き出しを始めた。
大きな看板は出さない。
港のど真ん中にも入らない。
寺の境内に釜を据え、粥ではなく、少し濃いめの混ぜ飯と味噌汁を出す。
魚のあらを使った汁。
少しの肉餡。
漬物。
余裕があれば、魚のすり身揚げを一つ。
最初は遠巻きに見ていた者たちも、匂いに負けて少しずつ並び始めた。
「……うまいな」
「炊き出しで、ここまで味があるんか」
「さすが、広いところで商いしてるだけあるな」
飯を食べた後、人々は市を見て回った。
信楽焼きの器。
瀬戸焼きの小皿。
伊勢の小物。
布の端切れ。
小さな木札。
針や紐など、日々使えるもの。
「これは、うちではなかなか手に入らん」
「信楽焼きか。ひとつ買っとこうかな」
「瀬戸はちょっと高いな」
「でも、見てるだけでも見事やな」
高すぎない品がある。
見たことのない品がある。
しかも、押し売りはしない。
それが堅田の人々には受け入れやすかった。
港の者も、少しずつ態度を変え始めた。
「物を買ってくれるだけでもありがたいな」
「銭が回る」
「店を港に出すのは、まだ勘弁やけどな」
「それは無理にいたしません」
まとめ役は、何度もそう頭を下げた。
「うちは、まず飯と買い付けからで結構です。堅田の皆様に嫌がられてまで、
無理に店を出すつもりはございません」
そうしているうちに、港の外れ、寺の近く、少し開けた道沿いに、
いびつながらも横丁のようなものができ始めた。
炊き出しに並ぶ者がいる。
器を眺める者がいる。
港の余り魚を持ち込む者がいる。
困っている者が飯を食い、その代わりに掃除や薪運びを手伝う。
少し働けば、小遣いも渡す。
立派な町ではない。
だが、飯と荷と人が少しずつ回り始めていた。
「これでええ」
堅田のまとめ役は、帳面を見ながら呟いた。
「堅田は、急がんでええ。これは伊勢松坂屋と延暦寺との戦の面もある。
まずは飯を出して、買って、少し売って、手伝ってもらう。それでええ」
その頃、京都郊外では別の問題が大きくなっていた。
日に日に、比叡山の領分から逃げてくる者が増えていたのである。
一日に一人。
多い日は、数人。
子どもだけの時もあれば、母親と子ども、家族連れのこともある。
彼らは、たいていぼろぼろだった。
足は擦り切れ、着物は汚れ、腹は減り、目だけが怯えている。伊勢松坂屋の飯場にたどり着くと、
釜の湯気を見ただけで泣く者もいた。
伊勢松坂屋は、追い返さなかった。
まず飯を食わせる。
寝床を作る。
簡易の湯浴みを使わせる。
少し落ち着いたら、庭の掃き掃除や器洗い、混ぜ飯屋の下ごしらえから手伝わせる。
おるだけはなし。
だが、追い出しもしない。
そのやり方が、少しずつ形になり始めていた。
しかし、それを黙って見ていられなくなったのが、延暦寺側だった。
ある日、京都郊外の寺に、延暦寺の使者を名乗る僧が数人やってきた。
「伊勢松坂屋の者はおるか」
その声に、境内の空気が少し張り詰めた。
伊勢松坂屋のまとめ役が出る。
「何用でございましょう」
「こちらの領分の者を受け入れていると聞いた」
「困っている方に、炊き出しをしているだけです」
「それが困ると言っている。あれらは我らの領民である。勝手に受け入れられては、筋が通らぬ」
まとめ役は、しばらく黙った。
心の奥で、怒りが湧く。
そもそも、旦那様に刃を向けた者たちである。
首筋に薙刀を当て、飯場を荒らした者たちである。
その延暦寺の使者が、また伊勢松坂屋の敷居をまたぎ、筋を説く。
気に入るはずがなかった。
だが、まとめ役は声を荒げなかった。
「うちは炊き出しをしているだけです。困った方にご飯を出し、手伝える方には
掃除や下ごしらえをお願いしている。それの何が悪いのでしょうか」
「こちらの領分から逃げた者を抱えるのが問題だと言っている」
「では、そちらの領分で暮らしがよほど良いのであれば、皆さん戻られるのではありませんか」
使者の顔がこわばった。
「何を申す」
「うちの炊き出しは、毎日あるわけではありません。寝床も粗末です。湯浴みも簡単なものです。
それでも戻らないということは、それだけ戻りたくない理由があるのでは」
「家はある」
「家があっても、食べ物がなかったり、物を取られたり、借金で追い詰められたり、
住み心地のよい状態ではないと聞いております」
「それは一部の話だ」
「一部の話が、毎日のように来ております」
その場にいた寺の者たちも、延暦寺の使者を睨んでいた。
この寺は、伊勢松坂屋に境内を貸している。炊き出しも、逃げてきた者の受け入れも見ている。
痩せた子どもが飯を食って泣くところも、湯を浴びてようやく眠るところも、毎日のように見ていた。
だから、黙ってはいられなかった。
「筋を通せと言うなら、そちらも筋を通しなはれ」
寺の年配の者が低く言った。
「なぜ、あんなにぼろぼろになるまで面倒を見なかったのですか」
別の僧も言う。
「仏の道を説く者が、腹を空かせた子どもを放っておいて、逃げたら連れ戻せと言うのですか」
「こちらにも事情がある」
「事情で腹は膨れません」
延暦寺の使者は、たじろいだ。
彼らも、強く出たかった。
だが、ここで怒鳴れば、また評判になる。
力ずくで連れ戻せば、さらに悪評が広がる。
しかも、目の前の寺の者たちまで、明らかに伊勢松坂屋側へ感情を寄せている。
「とにかく、これ以上の受け入れは控えていただきたい」
使者は、声を絞るように言った。
「控えるも何も、飯を求めて来た者に飯を出しているだけです」
まとめ役は静かに答えた。
「戻りたいという方を止めるつもりはありません。ですが、戻りたくない方を、
こちらから追い出すこともいたしません」
「それでは困る」
「困っているのは、逃げてきた方々です」
その一言で、使者は返す言葉を失った。
結局、延暦寺の使者たちは、はっきりした成果もないまま帰ることになった。
背中には、寺の者たちの冷たい視線が刺さっていた。
「……これは、報告せなあかんな」
伊勢松坂屋のまとめ役は、使者たちが去った後、深く息を吐いた。
「旦那様には、すぐ文を出そう」
「まずいですか」
「まずい。比叡山が直接言いに来たということは、向こうも相当困っている。
ただ、ここで向こうが変な手を打てば、また大きな騒ぎになる」
境内では、今日も炊き出しの釜が湯気を上げていた。
その横では、逃げてきた子どもが箒を持ち、庭を掃いている。
飯を食い、寝床を得て、簡単な湯を浴び、仕事を覚えようとしている。
その小さな背中を見ながら、まとめ役は思った。
堅田では、飯と市がじわじわ回り始めている。
京都郊外では、飯場が逃げ場になり始めている。
どちらも、伊勢松坂屋が望んで始めたことではない部分もある。
だが、もう後戻りはできない。
飯を出すということは、人を受け止めるということだ。
そして、人を受け止めるということは、時に大きな寺の面子まで揺らす。
まとめ役は帳面を開き、筆を取った。
――片田、炊き出し盛況。市、少しずつ受け入れられる。
――港はまだ店を嫌がるが、買い付けは可。信楽、伊勢小物に反応あり。
――京都郊外、比叡山領分より逃散者増。
――延暦寺使者来訪。受け入れ停止を求む。
――こちら、炊き出しと手伝いである旨を返答。寺方も延暦寺に反発。
――要注意。旦那様へ急ぎ報告。
筆を置いた後も、まとめ役の胸のざわつきは消えなかった。
これは、ただの炊き出しでは済まない。
そう感じ始めていた。




