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十月の二週が過ぎたころ、湯あみやができた。場内の倍するが好評。首をかしげる博之に周囲が呆れる

十月の三週目に入る頃、郊外の屋敷に作っていた簡易の湯浴み場が、ようやく形になった。

男用が一つ、女用が一つ。

湯屋と呼ぶにはまだ簡素だった。大きな桶、湯を沸かす釜、着替える場所、すのこ、囲い。

立派なものではない。

だが、伊勢松坂屋の者たちにとっては、それだけでも十分だった。

「城下まで行かんでええんやろ?」

「夕方に入れるんはありがたいわ」

「仕事終わりに湯浴みできるって、ええな」

 値段は外の湯屋の倍近い。

 それでも、使う者は思ったより多かった。

 飯は食える。寝床もある。給金も少しずつ貯まる。そうなると、湯浴みに金を払う余裕が出てくる。

 特に、市の翌日の休みにまとめて湯屋へ行かなくても、仕事終わりに入れるのが好評だった。

 その話を聞いて、博之は帳面の前で腕を組んだ。

「……なんやこれは」

 湯屋から苦情が来たから、内向けに作った。

 外に行きすぎるなとは言った。

 だが、だからといって、こっちで倍の値段の湯浴みを作ったら、それなりに使われるとは

 思っていなかった。

「高いのに使うんか」

 博之がぼやくと、ヨイチが呆れた顔で言った。

「旦那、そこが分かってへんねん」

「何がや」

「働いた後の湯浴みは、気持ちええんや」

 ヨイチは続ける。

「飯も寝床もある。そしたら、ちょっとした贅沢ぐらいしたくなるやろ」

「まあ……そうか」

「しかも、湯浴みの後の一杯がうまい」

 その一杯というのが、麦茶だった。

 湯浴み場のそばに、小さな休み処を作った。そこで麦茶と茶を出す。

 蜂蜜を少し練り込んだ饅頭も置いた。

 麦茶も茶も十文。

 蜂蜜饅頭も十文。

 団子三つで八文の横丁から考えると、かなり強気な値段だった。

 にもかかわらず、売れていた。

 特に女衆向けに少し畳を入れた湯浴み場は、博之の予想を越えて評判になっていた。

 まだ工事中で、開けたり開けなかったりの状態である。それでも、開いている日には

 女たちが集まり、湯浴みをし、畳で足を伸ばし、麦茶を飲み、蜂蜜饅頭を少しずつ分けて

 食べているらしい。

 お花が、くすりと笑って言った。

「女の人は、そういう場所が欲しいんです」

「そういう場所?」

「湯浴みして、安心して着替えて、畳の上で少し休んで、世間話ができる場所です」

 博之は首を傾げる。

「そんなに長くおるもんか」

「おりますよ」

 お花は当然のように言った。

「気持ちよく湯浴みして、麦茶を飲んで、甘いものを食べて、二刻まではいかなくても、

 しばらく座って喋れます」

「二時間ぐらいおるんか」

「おる人はおります」

 博之は思わず頭を抱えた。

「回転悪いやん」

「でも、高いでしょう?」

 お花が笑う。

「それに、毎日来る場所ではありません。普段は簡易の湯浴みで済ませる。でも、少し余裕が

 ある時に、ちょっと贅沢する場所になるんです」

 ヨイチが横でうなずく。

「旦那、飯以外の感覚はほんま読めてるんか読めてへんのか分からんな」

「うるさいわ」

「でも、波には乗ってるんが怖いわ」

 博之は帳面の横に置いた蜂蜜饅頭を一つ口に入れ、麦茶を飲んだ。

「……うまいけどな」

 確かに、湯上がりならうまいだろう。

 甘いものは強い。麦茶も香ばしく、口の中がすっとする。

「これに十文か……」

「旦那、最近でかい銭ばっか扱ってるから、逆に十文の価値が分からんようになってるんちゃうか」

 ヨイチにそう言われ、博之は苦笑した。

「それはあるかもしれん」

 湯屋の苦情を減らすために始めたはずが、内向けの商売として妙な売上が立ち始めている。

 清潔を保つため。

 女衆の安心のため。

 外の湯屋との摩擦を減らすため。

 そのつもりだった。

 だが、気づけばそこは、伊勢松坂屋の者たちにとって小さな社交場になっていた。

「商売って、ほんま難しいな」

 博之は呟いた。

「狙ったもんが外れて、外れたところで当たる」

 お花は穏やかに笑った。

「でも、皆が喜んでいるなら、よろしいのでは」

「まあな」

 博之は帳面を閉じかけ、ふと思い直してまた開いた。

 湯浴みの売上。

 麦茶。

 蜂蜜饅頭。

 畳の維持。

 薪代。

 人の配置。

 考えることは増えた。

 それでも悪くない。

 清潔になれば病も減る。女衆が安心すれば離れる者も減る。甘いものが噂になれば、

 また別の商いにもつながる。

 そうこうしているうちに、さらに二週間が過ぎていく。

 養鶏場では卵が少しずつ増え始めていた。

 油も、少量ながらまとまってきた。

 天ぷらにはまだ早いかもしれない。だが、試すだけならできる。

 親子丼も、もう少し増やせるかもしれない。

 博之は麦茶を飲み干し、静かに言った。

「……もう一押し、してみるか」

 ヨイチが笑う。

「またなんか始めるんか」

「飯の方や」

「それなら安心やな」

「なんでや」

「旦那、飯だけは外さんからな」

 お花も笑った。

 十月の風は、少し冷たくなっていた。

 だが、伊勢松坂屋の中では、湯気と人の声と新しい商いの匂いが、まだまだ途切れずに続いていた。

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