7月の終わり。松坂城下の横丁にくさびが打たれる。利益はそれほど大きくないが店が回りだす。
それからさらに二週間。七月の終わりが見えてきた頃、博之は改めて帳面を広げていた。
「……まあ、こんなもんやな」
指で数字をなぞりながら、小さく呟く。
まず、松坂の本店――横丁二つの利益。これは相変わらず強い。
ざっくり三万九千文ほどの売上が立ち、そこから人件費で二万文ほどが消える。
さらに細かい諸経費や燃料、仕入れのブレを引けば、手元に残るのはおおよそ一万五千文。
「ここが芯やな」
博之はそう言って、帳面を軽く叩いた。
一方で、松坂の城下に出した店――こちらはまだ育ち途中だ。
魚屋と田楽屋、さらに豚汁や団子、鶏の店も少しずつ動かし始めた結果、二週間で五千文ほどの利益。
「……悪くはない」
ヨイチが横から覗く。
「最初にしては上出来やろ」
「せやな」
博之も頷く。
だが、そこから先が重要だった。
新しく借りた屋敷に、物資を蓄える。米、味噌、干物、塩。何かあったときに、
しばらく食い繋げるように。
備蓄として数千文を回す。
さらに予備費。急な出費や、人の入れ替わり、病や怪我に備える金。
そして、城下での商いを続けるための寄進として、二千文。
「……結局、そんな変わらんか」
博之は苦笑する。
横丁二つと城下の店を合わせれば、ざっくり二万文ほどの利益が出ている。
それでも、回すために必要な金を入れていけば、最終的に残るのは三万五千文ほど。
前より大きく増えたわけではない。
だが、減ってもいない。
「崩れてへんだけ、ええやろ」
ヨイチが言う。
「せやな」
博之は素直に答えた。
重要なのは、数字そのものではなかった。
――形や。
横丁二つに加えて、城下にもう一つ、足場ができた。
それが何より大きい。
店が増え、人が増え、動きが広がる。
それに伴って、噂も広がる。
「最近、城下のあそこ、よう流行っとるらしいで」
「豚汁がうまいとか、なんとか」
そんな声が耳に入るようになっていた。
屋敷では、新しく入った者たちが汗を流している。
「火ぃ強すぎや!」
「味噌、まだ早い!」
ヨイチの声が飛ぶ。
お花は別の場所で、静かに全体を見ている。
「こっち回ってください。あの子、まだ慣れてません」
的確に指示を出し、場を整える。
子どもたちも、少しずつ変わっていた。
「今日、これだけ売れたで」
「ほんまか。ちゃんと数えたんか」
「数えた!」
帳面に書かれた正の字を見て、誇らしげに笑う。
侍たちは、合間を見て読み書きを教え、夜には町の話を持ち帰る。
「伊勢の方、また人増えとるらしいで」
「津の魚、ちょっと値上がりしとる」
そんな情報が、火の周りに集まる。
博之はそれを聞きながら、静かに考える。
――まだいけるな。
焦る必要はない。
だが、止まる理由もない。
七月の終わり。
暑さの中で、横丁は回り続けている。
金は大きく増えてはいない。
だが、確実に減ってもいない。
そして何より――
「……広がっとる」
博之はそう呟いた。
店が一つ増えた。
それは、ただの一軒ではない。
人が動き、物が動き、情報が流れる、新しい拠点だ。
刀で奪うわけでもなく、土地を切り取るわけでもない。
だが確実に、町の中に居場所を増やしている。
博之は帳面を閉じ、ゆっくりと立ち上がった。
「次、どうするかやな」
その声は静かだったが、確かな手応えを含んでいた。
松坂の町に、もう一つの横丁が根を張り始めている。
それだけで、今は十分だった。




