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楽しい記帳の時間。7月3週目。2週目まで632.7万文→794.3万文

「旦那様、楽しい楽しい帳簿のお時間でございます」

ヨイチが帳面を抱えて、いつものようににこやかに座った。博之はその顔を見るなり、

露骨に嫌そうな顔をした。

「いやや」

「まだ何も申しておりません」

「その顔で帳簿持ってきた時点で嫌や。なんで毎回そんな楽しそうなんや。こっちは

 嫌な予感しかしとらんぞ」

「今回は特に嫌な予感が当たると思います」

「もう帰ってええか?」

「だめです」

ぴしゃりと言われて、博之は観念したように机に肘をついた。帳簿の時間は嫌いだった。いや、正確に言えば、数字を見るのは嫌いではない。だが、数字が増えれば増えるほど、次にどこへ撒くか、誰を雇うか、どこを押さえるかを考えなければならない。それが面倒くさい。しかも下手に儲かると、人の目も増える。要するに、金が増えるほど怖くなるのである。

「で、今回は何が怖いんや」

「利益ベースで百万文以上、上乗せでございます」

「えー……」

博之は眉間を押さえた。

「増えとるやんけ」

「増えております」

「いや、喜ぶところやねんで、本来は。わかっとる。わかっとるけど、

 増えたら増えたで撒かないとあかんやろ。これ放っといたら絶対目ぇつけられるやんけ。

 命狙われるルート入ってないか?」

「旦那様は毎回、儲かるとまず命の心配をなさいますね」

「当たり前やろ。戦国やぞ。金が余ってますなんて顔しとったら、どうぞ殺してください

 言うてるようなもんや」

ヨイチはふふっと笑って帳面を開いた。

「まず松坂から参ります。売り上げ百九十・七万文。初期経費十一万文、家賃五・五万文、

 人件費四十二万文。差し引き五十一・二万文。ここから旦那様お嫌いの“謎の十万文”を念のため

 差し引いて、四十一・二万文のプラスでございます」

「謎の十万文って言い方やめろや。いるねん、それ。いるけど、毎回引かれると嫌な気持ちになるねん」

「必要だから積んでいるのでしょう?」

「そうやけども」

博之はぶつぶつ言いながら頷く。松坂はもはや土台だった。ここが崩れなければどうにかなる、

そういう店になりつつある。

「続いて伊勢。こちらが百六十五・五万文の売り上げ。初期経費十一万文、人件費二十九万文、

 家賃五・五万文。そこに謎の十万文、さらに各所へ回す必要経費十万文を引きまして

 ――百万文ちょうどのプラスでございます」

「は?」

博之は顔を上げた。

「いや怖い怖い怖い。なんやそれ。伊勢バグっとるやん」

「いいえ、旦那様が育てたのでございます」

「いや、そういうきれいな話ちゃうねん。百万文って何や。そんな丸い数字で

 出されると余計に怖いわ。絶対誰かに見つかるやん。『伊勢で最近妙に羽振りのええ飯屋がある』

 とか噂されるやん。終わりやん」

「ですから回すのでございます」

ヨイチは涼しい顔で言う。博之は大きくため息をついた。

「ほんま、増えても休まらんな……」

「鳥羽はほぼトントンでございます。立ち上げの費用込みで、マイナス〇・四万文」

「うん、鳥羽はよう耐えとる。優秀や」

「津は利益六十七万文から、家賃、人件費、各地に撒く十万文、さらに謎の十万文を差し引いて、

 二十一万文のプラス」

「津も立ってきたか……。いや、立ってきたのはええねん。ええけど、全部立ってきたら

 全部考えなあかんやろ。しんどいわ」

「伊賀はマイナス二・五万文。名張は立ち上げたばかりですのでマイナス五・九万文。

信楽は五万文のマイナス」

「名張はしゃあない。むしろそれで済んでるなら優秀や」

ヨイチはそこで一拍置いた。

「店舗合計で百四十七万文のプラスでございます」

「百四十七……」

博之は机に突っ伏した。

「嫌や。怖い。面倒くさい。絶対また撒かなあかんやん。これ松坂、伊勢、津に十万文ずつ回して、

伊賀、名張、信楽に五万文ずつ撒いてもまだ余るやろ。余ったら何する? また拠点か? 

また人雇うんか? また俺の寝る時間減るんか?」

「その可能性は高いですね」

「最悪や……」

だがヨイチの報告は終わらない。

「さらに買付便でございます」

「まだあるんか」

「こちらは九鬼水軍へ十万文を払った上で、十四万文のプラス」

博之はしばらく黙った。最後が最後の行を指で示す。

「前回までの資産が六百三十二・七万文。今期の純増が百六十二万文。よって、

 合計七百九十四・七万文でございます」

沈黙が落ちた。

博之は帳面を見て、ヨイチを見て、また帳面を見た。嬉しくないわけではない。

むしろ、めちゃくちゃ嬉しい。嬉しいのだが、それ以上に先のことが頭に浮かぶ。

金がある。つまり狙われる。金がある。つまり寝かせるのは悪手だ。

金がある。つまり撒かなければならない。人を雇い、拠点を増やし、商品を回し、

在庫を積み、船を使い、顔をつなぐ。要するに、儲かるほど楽になるどころか、仕事は増えるのである。

「ヨイチ」

「はい」

「俺、儲けるん向いてへんかもしれん」

「何をおっしゃいます。これだけ増やしておいて」

「いや、増やしたい気持ちはあるねん。でも増えたら増えたで、また巻かなあかんやんけ。

『やったー百六十万文増えたー』で終わらへんのがしんどいねん。『よし、次はどこに金隠すか』の

 時間やん」

「隠すのではなく、使うのでございます」

「同じようなもんや」

ヨイチは肩を揺らして笑った。

「旦那様、おめでとうございます。七百九十四・七万文でございます」

「ありがとうやけども」

ヒロユキは苦い顔のまま帳簿を閉じた。

「八百行ったら、ほんまに誰かに刺されるんちゃうか。いや、刺される前にこっちが

 動かなあかんのやろな。あーもう、嫌や。金が増えるの怖いわ」

 そう言いながらも、その目の奥には次の一手を考える光が宿っていた。結局、怖い怖いと言いながら、

 次の拠点、次の商い、次の撒き先を考えてしまう。面倒くさい。しんどい。命も惜しい。

 けれど、ここまで来た以上、立ち止まるわけにもいかない。

七百九十四・七万文。

その重さを噛みしめながら、ヒロユキは小さく呻いた。

「……で、次はどこに撒くんや?」

夜市はにっこり笑った。

「旦那様、楽しい楽しい次の投資先会議でございます」

「やっぱり帰るわ」

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