楽しい帳簿の時間。7月1週目。6月末日までで548.8万文→632.7万文 もはや説明するのがめんどくさくなってきているヨイチwww
「旦那様。楽しい楽しい帳簿の時間でございます」
ヨイチが、もう笑っているのか疲れているのか分からない顔で帳面を抱えて入ってきた。
博之は、ふくふく焼きの焼き型を眺めていた手を止める。
「……何。怖い」
「怖いです」
「最初から怖いって言うな」
「正味なところ、ここ最近、福福焼きとお好み焼きに話が持っていかれすぎております。
寺社での縁会だの、二人一組だの、始終ご縁だの、旦那様が浮かれすぎておりまして」
「浮かれてへん。考えてただけや」
「浮かれておりました」
「はい」
お花が横で即答した。
「味方おらんのか」
ヨイチは帳面を開いた。
「そろそろ帳簿をやらないと、後で本当に怖いことになります」
「もう十分怖い」
「では、結論から申します」
「結論から?」
「はい。細かく説明するのが、少し面倒になりました」
「帳簿役がそれ言うんか」
「言います。今回、八十三万九千文増えました」
博之は、しばらく固まった。
「……は?」
「合計、六百三十二万七千文でございます」
「ちょっと待て。前が五百四十八万八千文やったよな」
「はい」
「増えすぎやろ」
「増えすぎです」
「なんでそんな淡々と言うねん」
「説明すると長いからです」
「面倒くさくなったんけ」
「面倒くさくなりました」
博之は思わず笑った。
「お前がそれ言うたら終わりやろ」
「もう、いろいろ集計しまして。松阪、伊勢、津、鳥羽、伊賀上野、名張。信楽焼き、定期便、
棚売り、魚、すり身、鮪、飯会、寄進、謎の十万、謎の二十万。全部見ていたら、
帳面をつけているこちらも嫌になってきました」
「俺のせいみたいに言うな」
「旦那様のせいです」
お花も頷いた。
「旦那様のせいです」
「だから味方おらんのか」
ヨイチは、ひとまず伊勢の頁を開いた。
「特に伊勢です。伊勢の力が強すぎます。売上も人の流れも、相変わらずおかしいです。諸々引いて、
さらに謎の二十万文を計上して、それでもこの数字です」
「謎の二十万って何やねん」
「内宮周り、挨拶、紙、油、岩見、寺社、周辺への調整、甘味試作、今後揉めそうな相手への先回り。
全部込みです」
「便利すぎるな、謎」
「便利ですが、必要です」
「伊勢、怖いなあ」
「はい。やばいです」
ヨイチは次の頁をめくる。
「鳥羽は、港が立ち上がりました。ただし、飯会、漁師への振る舞い、九鬼様への筋通し、
下準備、道具、人件費で、まだ赤字です」
「まあ鳥羽はしゃあない。撒いたからな」
「はい。ですが、漁師の反応は悪くありません。すり身天と鮪鍋が入りました。もう少しで回ると
思います」
「鳥羽は南の締めやからな。焦らんでええ」
「そうですね」
「伊賀上野は?」
「伊賀上野は、マイナス十五万六千文です」
「まだ赤か」
「はい。ただし、横丁を二つ目まで作りました。信楽焼きの中継、飯場、子どもの学び場、山菜、
養鶏、養蜂、護衛。初期費用が重いです」
「でも信楽焼きの道やからな」
「はい。帳簿上の単体では赤ですが、信楽焼きの買い付け益と九鬼様向けの外販を考えると、
意味があります」
「上野は赤でもええ。皿の道や」
「そういう扱いです」
「名張は?」
「名張はマイナス五万文ほどです」
「施し分やな」
「はい。現状はまだ施し色が強いです。ただし、旦那様が言われた通り、
名張は餡子の道にする方針です。大和八木、大和高田、藤井寺、堺。砂糖と小豆の相場を見に行く
道として意味を出します」
「そこやな。名張はこれからや」
「はい」
ヨイチは、さらに買い付け計画の頁を見せた。
「加えて、次期の買い付けですが」
「まだあるんか」
「あります。伊勢は四万文では足りません。六万文にします」
「うん、まあそうやな」
「松阪も六万文」
「松阪も増やすんか」
「棚売り、信楽焼き、甘味、紙、草履、日用品が増えています」
「しゃあない」
「信楽焼きは、三万文から五万文にします」
「九鬼様分もあるしな」
「はい。津は三万文」
「港増えたからな」
「鳥羽は一万文」
「最初やしな」
「これで五か所、ざっくり十八万文ほど買い付けが動きます」
「十八万文」
「はい。ただし、これによる利益増はまだ計上しません」
「なんでや」
「どうせまた、旦那様が“撒いとけ”と言うからです」
「言うかもしれん」
「言います」
「言い切るな」
ヨイチは疲れた顔で帳面を閉じた。
「ですので、買い付け益は一旦見ずに、またばらまいておきます」
「ざっくりすぎやろ」
「もう、帳簿をつけているこちらも嫌になってきました」
「ヨイチが壊れかけてる」
「壊れます。最初は豚汁の椀を数えていたはずなのに、今は伊勢、津、鳥羽、上野、名張、
信楽焼き、砂糖、小豆、お好み焼き、寺社縁会です」
お花が静かに笑った。
「本当に、最初の頃とは大変な違いですね」
博之は、少し遠い目をした。
「最初は、冷や飯と薄い味噌汁やったんやぞ」
「はい」
「ボロ小屋で、ヨイチと二人で、なんとか食いつないでたんや」
「はい」
「それが今、六百三十二万七千文て」
「はい」
「意味が分からん」
「帳簿上は分かります」
「その言い方、ほんま怖い」
しばらく、座敷に静かな空気が流れた。
外では、子どもたちが信楽焼きの小皿を数えている。
女衆は福福焼きの包み紙を選んでいる。
男衆は鳥羽へ送る荷を確認している。
地侍たちは、次の信楽行きの相談をしている。
銭は増えている。
だが、ただ増えているだけではない。
鳥羽で漁師がすり身天を食い、津で長野の若い衆が頭を下げ、上野で子どもが皿を数え、
名張で砂糖の道を探し、松阪で縁談の場ができる。
博之は、小さく息を吐いた。
「まあ、撒いていくしかないな」
「はい」
「銭を抱えたら怖い。飯にする。道にする。皿にする。甘味にする。人の縁にする」
「それが、伊勢松坂屋のやり方になってきています」
お花が言った。
「繋がる縁がありますから」
「そうやな」
博之は、福福焼きの小さな焼き型を手に取った。
「福福焼きも、お好み焼きも、最初はしょうもない思いつきや。でも、そこから寺社に金が残るかも
しれん。男女が話すかもしれん。名張に砂糖の道ができるかもしれん」
「旦那様のしょうもない思いつきは、時々本当に道になります」
「時々か」
「時々です」
ヨイチがすぐに刺した。
「大半は帳簿を増やします」
「最後にそれ言うな」
座敷に笑いが起きた。
だが、博之は笑いながらも、どこか真剣だった。
「六百三十二万七千文か」
「はい」
「怖いな」
「怖いです」
「でも、怖いから使うんやな」
「はい。ちゃんと帳簿をつけながら」
「それが一番怖い」
「必要です」
ヨイチは、最後に一行だけ書き足した。
――買い付け増額。利益は未計上。縁と道に回す。
博之はそれを見て、少しだけ笑った。
「ええ帳簿やな」
「珍しいことを言いますね」
「たまにはな」
楽しい楽しい帳簿の時間は、やはり楽しくはなかった。
けれど、数字の向こうには、確かに飯と人と道があった。
六百三十二万七千文。
それは、貯め込む銭ではなく、また次の縁へ撒くための銭だった。




