抑えきれないもの
湯から上がったあとの廊下は、夜の空気がゆるやかに流れ込み、火照った肌を少しずつ冷ましていく。
だが。
ガイの歩幅だけが、わずかに速い。
足音が強く、一定ではない。
(……なんだよ、あれ)
奥歯を噛みしめる。
頭の中に、さっきの光景が残っている。
湯けむりの中。
仮面を外した顔。
濡れた髪が頬にかかり、水滴が首筋を伝って落ちる。
何も分かっていないまま、無防備にそこにいた。
「……っ」
短く息を吐く。
後ろを歩くカイルも、無言だった。
だが完全に落ち着いているわけではない。
視線を落とし、思考を整理している気配がある。
(あいつも、見たか—あんな大熊みたいなやつが、あれじゃ小熊だなぁ)
でも——分かる。
同じものを見て、同じように引っかかっている。
それが、余計に面白くない。
部屋に着く。
ガイが扉を押し開ける。
少し強く。
「……入れ」
短く言う。
エリオは何も言わず中へ入る。
カイルも続く。
扉が閉まる。
鈍い音が、部屋に残る。
静寂。
外の気配が遠のく。
エリオはいつも通り、濡れた髪をタオルで拭き始める。
指を通し、水気を払う。
首筋に残った水滴が、ゆっくりと鎖骨へ流れる。
何も変わらない。
本当に、何一つ。
その様子を見て。
ガイの眉がゆっくりと寄る。
「……おい」
低く呼ぶ。
エリオが振り向く。
動きは静かで、無駄がない。
「なんだ」
淡々とした声。
ガイは一歩、踏み出す。
床を踏む音が、はっきり響く。
距離が縮まる。
「分かってんのか」
エリオはわずかに首を傾ける。
「何をだ」
迷いのない返答。
本気で理解していない。
ガイの舌打ちが、小さく漏れる。
「……あのまま外すな」
視線を外さずに言う。
声が低い。
押さえているが、感情が滲む。
エリオの思考が止まる。
(制限……?)
理由が見えない。
「合理性がない」
即答。
間を置かない。
その言葉で。
ガイの中の何かが軋む。
「あるだろ」
一歩、さらに踏み込む。
もう、腕が触れる距離。
「いろんな奴らに見られてた」
声がわずかに強くなる。
エリオは瞬きを一つする。
「何が問題だ」
変わらない。
変わらなさすぎる。
ガイは一瞬、言葉に詰まる。
拳が強く握られる。
「……問題しかねえだろ」
吐き出す。
呼吸が、わずかに荒い。
沈黙。
その中で。
エリオが口を開く。
「……矛盾している」
静かな声。
ガイの動きが止まる。
「何がだ」
少し苛立った声。
エリオは視線を外さずに続ける。
「先ほどは、“外せ”と言った」
事実を並べる。
「今回は、“外すな”と言った」
一拍。
「基準が不明だ」
空気が止まる。
カイルが思わず視線を逸らす。
(そこか……)
ガイは一瞬、言葉を失う。
そして。
「……状況が違うだろ」
絞り出すように言う。
エリオはすぐに返す。
「説明されていない」
即答。
逃がさない。
ガイの眉が寄る。
一歩、詰める。
「風呂だぞ」
短く言う。
顎で仮面を指す。
「水に入るのに、あれつけたままの方が不自然だろ」
エリオは考える。
(合理性あり)
理解はできる。
だが。
「ならば問題ないはずだ」
続ける。
「外すことに支障はない」
論理は通っている。
ガイの表情が歪む。
それじゃない。
言いたいのは、そこじゃない。
「……違う」
低く吐く。
さらに一歩、踏み込む。
ほとんど触れる距離。
「風呂は……仕方ねえんだけど」
言葉を探すように。
無理やり繋ぐ。
「でも、あれは」
一瞬、詰まる。
視線を逸らす。
ほんの一瞬だけ。
「……あんな状態で」
言葉が続かない。
だが。
「見せるなって言ってんだよ」
絞り出す。
エリオの思考が止まる。
(…あんな状態)
意味が曖昧。
「何かおかしかったか?…具体性に欠ける。教えてくれ」
即答。
ガイのこめかみが動く。
「お前……っ」
一歩踏み込む。
完全に目前。
「分かるだろ普通!」
声が上がる。
だが。
エリオは動かない。
「分からない」
はっきりと言う。
一切の迷いなく。
沈黙。数秒。
ガイが顔を覆う。
指の隙間から、息が漏れる。
「……くそ」
低く呟く。
もう誤魔化せない。
ゆっくりと手を下ろす。
エリオを見る。
逃げずに。
「……見せたくねえんだよ」
いつもの低い声。
でもか細く弱々しい声。
顔はいつもの無愛想な表情ではなく、真っ赤に染まった青年の表情をしていた。
「他の奴に」
一拍。
「お前のああいう顔」
言い切る。
空気が変わる。
カイルが息を止める。
エリオの思考が、わずかに遅れる。
(……独占)
言葉としては理解できる。
だが。
感覚としては、分からない。
「合理性がない」
それでも言う。
ガイが、小さく笑う。
自嘲気味に。
「知ってる」
短く返す。
「でも、そうなんだよ」
それだけ言う。
沈黙。
ガイは視線を逸らす。
これ以上は無理だと判断するように。
「……もういい」
低く吐き捨てる。
背を向け、足早に扉へと向かう。
カイルが静かに呼ぶ。
「ガイ」
だが、止まらない。
そのまま扉を開け、強く出ていく。
扉が閉まり、重い音が残る。
一瞬で、静寂になった。
エリオは、その場に立ったまま動かない。
視線を少し落とす。
(……理解不能)
処理できない。
そんなエリオとガイのやり取りを見ていたカイルが口を開いた。
「…少しだけ」
言葉を選ぶ。
「分かってあげてください」
静かに言う。
エリオは視線を向ける。
「何をだ」
カイルは一瞬、迷う。
どう言えば伝わるかを、考えたがこれ以上は無粋だと諦めた。
そんなカイルをみてエリオは考える。
(見せるな)
(美しい)
言葉が重なる。
エリオの指が、無意識に仮面へ触れる。
その縁を、なぞる。
ゆっくりと。
(……ガイが言った)
ふと浮かぶ。
湯の中での言葉。
“外せ”
自分の判断ではない。
他人の言葉で動いた。
その事実。
否定できない。
(……基準)
揺れる。
ほんのわずかに。
今までなかったはずのものが、残る。
エリオは小さく息を吐く。
「……分からないな」
呟く。
だが。
その言葉は、以前よりも少しだけ——
迷いを含んでいた。




