基準のズレ
翌朝。
王都の朝は静かで、石造りの建物の隙間から差し込む光は冷たく、空気もどこか張り詰めている。
エリオはいつも通り、目を開けた瞬間に身体を起こす。
無駄な動きは一切ない。
周囲を一度だけ見渡す。
(異常なし)
習慣的な確認。
視線を横へ向ける。
カイルはすでに起きており、椅子に腰掛けたまま手袋の紐を締め直していた。
「おはようございます」
穏やかな声。
エリオは小さく頷く。
「ガイは」
短く問う。
カイルは一瞬だけ手を止める。
ほんのわずかな間。
「……まだ戻っていません」
静かに答える。
その言葉に、エリオの動きがほんの一瞬だけ止まる。
だがすぐに、何事もなかったかのように視線を戻す。
(戻っていない)
情報として処理する。
それ以上は広げない。
——はずだった。
「見せるな」
ふと、昨日の声がよぎる。
低く、押し殺した声。
(……理由不明)
理解はできない。
だが、消えない。
エリオは立ち上がる。
机の上に置いていた仮面を手に取る。
いつも通りの動き。
そのまま顔に当てようとして——
止まる。
仮面の縁に触れた指が、その位置でぴたりと止まる。
動かない。
数秒。
(……外せ)
昨日、湯の中で外した。
理由は明確。
(ガイが言った)
思考がそこに繋がる。
エリオはゆっくりと仮面を下ろす。
顔には付けない。
手に持ったまま、視線を落とす。
(任務に支障はない)
(外した状態でも問題ない)
合理的には、外してもいい。
むしろ、自然だ。
なのに。
(……外さない方がいい)
結論が、わずかにズレる。
エリオの眉が、ほんの少しだけ動く。
(不一致)
思考と判断が一致しない。
初めての感覚。
カイルが、その様子を静かに見ている。
少しだけ口元を緩めながら。
「……珍しいですね」
あえて軽く言う。
エリオは顔を上げる。
「何がだ」
カイルは肩をすくめる。
「悩んでいるように見えたので」
その言葉に。
エリオは一瞬だけ黙る。
そして。
「……問題はない」
短く言う。
だが、わずかに間があった。
カイルは何も言わない。
ただ、静かに笑うだけ。
エリオは仮面を顔に当てる。
位置を合わせる。
固定する。
いつも通りの動作。
——だが。
その直後。
扉が開く。
ガイが入ってくる。
足音は静かだが、少しだけ重い。
一晩外にいたせいか、髪がわずかに乱れている。
エリオと目が合う。
一瞬だけ、空気が止まる。
ガイの視線が、仮面に向く。
ほんのわずかに、眉が動く。
すぐに逸らす。
「……行くぞ」
短く言う。
それだけ。
感情は抑えている。
エリオは頷く。
一歩、踏み出す。
——止まる。
足が、わずかに止まる。
理由は分からない。
だが、止まる。
そして。
ゆっくりと、手を上げる。
仮面に触れる。
ガイの視線が戻る。
動きが止まる。
エリオは、そのまま仮面を外す。
ゆっくりと。
音もなく。
素顔が現れる。
朝の光が、斜めに差し込む。
火傷の痕も、そのまま照らされる。
だが、それを含めて。
視線を引く。
静かな空気が落ちる。
カイルが目を細める。
ガイは、完全に動きを止めている。
「……何してんだ」
低く言う。
声が少しだけ掠れる。
エリオは首をわずかに傾ける。
「問題はない」
淡々と返す。
だが。
一拍。
「…お・ま・え・が外せと言った」
小さく続ける。
そして、エリオは言い終わると、急に黙り唇を尖らせた。
まるで拗ねた子供のような顔をしている。
ガイの思考が止まる。
一瞬、理解が追いつかない。
エリオは視線を逸らさずに言う。
「だから外した」
それだけ。
理由としては、十分すぎるほど明確。
だが。
ガイの顔が、わずかに歪む。
言葉が出ない。
分かりやすすぎて、思わず笑いそうになる。
カイルが思わず視線を逸らす。
(今それ出すか……)
沈黙。
ガイがゆっくりと息を吐く。
手で顔を覆う。
額に手を当てるように。
「……お前な」
低く言う。
少しだけ、声が震えている。
呆れと。
どうしようもなさと。
全部混ざっている。
拗ねてるくせに、隠しきれないところが——どうしようもなく可愛かった。
「タイミング考えろ」
そう言いながらも。
視線は完全には逸らせていない。
エリオは考える。
(タイミング)
新しい基準。
また増える。
「基準が増えた」
ぽつりと呟く。
カイルが小さく肩を震わせる。
笑いを堪えている。
ガイは天井を仰ぐ。
大きく息を吐く。
「……増やしてねえよ」
小さく言う。
だが。
その声は、昨日よりも少しだけ柔らかかった。




