問題ある側
夕刻から少し時間が経ち、空の色がゆっくりと夜へと傾き始める中。
集落の外れにある簡易の給水所には、任務終わりの兵たちがぽつぽつと集まり始めていた。
桶に落ちる水の音が、規則的に響く。
その中に、エリオの姿がある。
仮面はつけたまま。
いつも通りの距離感で、周囲と一定の間を保っている。
(問題ない)
状況は安定している。
人の数も多すぎない。
干渉のリスクも低い。
そう判断して、水に手を伸ばす。
その瞬間。
横から、別の手が先に器を取る。
「これ、使え」
低い声。
視線を向けるまでもない。
ガイだ。
自然な動きで器に水を汲み、そのままエリオの前に差し出している。
距離が、近い。
必要以上に。
エリオはわずかに視線を上げる。
「自分でできる」
短く言う。
だが、ガイは引かない。
「知ってる」
即答。
そのまま器を引かずに、わずかに距離を詰める。
「でも今はこっち使え」
理由はない。
説明もない。
ただ、“そうさせる”言い方。
エリオは一瞬だけ沈黙する。
(……強い)
拒否する理由はある。
だが、それを通すよりも、この場を収める方が合理的だと判断する。
ゆっくりと手を伸ばす。
器に触れる。
同時に。
指が、かすかに触れる。
ほんの一瞬。
避けられる距離だったはずなのに、なぜかそのまま重なる。
(……近い)
エリオの思考がわずかに止まる。
ガイはそのまま離さない。
ほんの一拍分だけ、長く。
そして、ようやく手を離す。
「……飲め」
短く言う。
視線は逸らしたまま。
エリオは器を受け取る。
仮面に手をかける。
ほんのわずかに、動きが止まる。
(問題ない)
周囲の視線。
距離。
関係性。
すべて確認する。
問題はない。
ゆっくりと仮面を外す。
水を口に運ぶ。
その間も。
ガイの視線が、外れない。
真正面から、見ている。
隠す気も、逸らす気もない。
(……なぜ見ている)
エリオの中に、小さな引っかかりが生まれる。
飲み終え、仮面を戻す。
その動作の途中。
ガイの手が伸びる。
留め具に触れる。
「貸せ」
短く言いながら、そのまま留め直す。
距離は、ほぼゼロ。
さっきよりも近い。
呼吸が触れそうな距離。
(……またか)
エリオの中で、わずかに感情が動く。
理由は分からない。
だが。
(――邪魔されている)
さっきと同じ感覚。
カイルと話していた時。
中断された時。
同じ種類の引っかかり。
「……自分でできる」
もう一度言う。
だが、さっきよりわずかに低い。
ガイは止まらない。
「知ってる」
同じ返答。
だが今度は。
「でもやる」
短く付け足す。
理由は言わない。
ただ、そうする。
それだけ。
留め具を直し終え、ゆっくりと手を離す。
だが。
距離は、離れない。
そのまま、見ている。
真正面から。
逃がさない距離で。
エリオは、ほんの一瞬だけ視線を逸らす。
(……やりづらい)
初めての感覚。
今までなかった違和感。
合理では説明できない、微かな乱れ。
その時。
「エリオ様」
横から、カイルの声が入る。
振り向く。
カイルが立っている。
いつも通りの距離で。
だが、その視線は真っ直ぐガイを捉えている。
一歩、踏み出す。
「それ、俺がやります」
穏やかな声。
だが、引かない。
ガイの視線が、ゆっくりと動く。
カイルを見る。
数秒。
何も言わない。
その沈黙が、空気を重くする。
「必要ない」
ガイが言う。
短く、はっきりと。
カイルは一瞬だけ目を細める。
だが、すぐに表情を戻す。
「必要かどうかは、エリオ様が決めることです」
正論。
逃げ道のない言葉。
エリオは、そのやり取りを見ている。
二人の間にある温度を、正確には理解できないまま。
(……非効率だ)
そう思う。
だが同時に。
(どちらか一方にする必要がある)
そんな判断が浮かぶ。
理由は分からない。
だが、放置するとさらに状況が複雑になると感じる。
エリオは口を開く。
「ガイ」
名前を呼ぶ。
ガイの視線が戻る。
「手を離せ」
短く言う。
命令に近い声音。
ガイは一瞬だけ止まる。
ほんのわずかに。
だが、その後ゆっくりと手を離す。
視線は逸らさない。
エリオを見たまま。
その一瞬。
空気が張り詰める。
カイルはそれを見て、静かに息を吐く。
(……やっぱり)
確信する。
この関係は、もう“何もない”では済まない。
そして。
(負ける気はない)
胸の奥に残る小さな痛みを、そのまま抱えながら。
一歩、前に出る。
エリオの隣へ。
距離を詰める。
今度は、自分の意思で。




