近すぎる距離
午後の風が少し強くなりはじめた。
集落の中を抜けるたびに布や旗が大きく揺れる中で、巡回の合間に設けられた短い休息の時間は、表面上は穏やかに流れているようでいて、どこか落ち着かない空気を含んでいた。
エリオは壁際に立ち、簡単な報告書に目を落としている。
仮面は、いつも通り。
何も変わらないはずの姿。
「エリオ様」
その静けさの中に、カイルの声が自然に溶け込む。
また——エリオの表情がみれたらと…手には水を持っていた。
無理のない動きで隣に立つ。
近い。
昨日と同じくらいの距離。
「少し休んでください、さっきからずっと立ちっぱなしですよね」
柔らかく、それでいて真っ直ぐな声。
エリオは視線を上げる。
「問題ない」
短い返答。
だがカイルは引かない。
「問題があるかどうかじゃなくて、負担があるかどうかです」
言いながら、さらに半歩だけ距離を詰める。
逃げ場を作らない優しさ。
「こういう時くらい、頼ってください」
その言葉に、エリオはわずかに視線を動かす。
拒否はしない。
だが、受け入れるわけでもない。
その曖昧な反応の中で。
(……近い)
エリオの中に、わずかな違和感が生まれる。
距離そのものに問題はない。
むしろ合理的に考えれば、この程度の接近は何の支障もないはずだった。
それなのに。
(少し、話しづらい)
理由は分からない。
だが、言葉が少しだけ出にくい。
その感覚に、自分でも説明がつかない。
その時だった。
強い風が一瞬だけ吹き抜ける。
布が揺れ、視界がわずかに乱れる。
同時に。
エリオの仮面の留め具が、わずかに外れる。
ほんの僅かなズレ。
だが、それは確かに起きていた。
(……ずれた)
認識した瞬間。
カイルの視線が動く。
距離が近い分、気づくのも早い。
そのまま手を伸ばそうとした——その時。
「動くな」
低い声が割り込む。
同時に、横から強く腕を引かれる。
カイルの身体がわずかに後ろへずれる。
「……え?」
一瞬、理解が追いつかない。
だが。
次の瞬間には、視界にガイが入る。
エリオとの間に割り込むように立ち、迷いなく距離を奪っている。
「ずれてる」
短く言いながら、手を伸ばす。
エリオの仮面に触れる。
距離は、ほとんどゼロ。
顔と顔が近い。
呼吸が混ざりそうなほどの距離で、ガイは何のためらいもなく留め具を直していく。
(……近い)
エリオの思考が、一瞬だけ止まる。
物理的な距離。
それ自体に問題はない。
むしろ効率的で、無駄がない。
だが。
(さっきより、やりやすい)
ふと、そんな感覚が浮かぶ。
カイルの時にはあった“わずかな引っかかり”が、今はない。
言葉が出やすい。
思考が止まらない。
(……なぜだ)
理由は分からない。
だが、その差は確かに存在していた。
「……これでいい」
ガイが手を離す。
一歩引く。
それで終わるはずだった。
だが。
エリオは、わずかに視線を動かす。
カイルの方を見る。
そして。
ほんの少しだけ、間を置いてから口を開く。
「……話の途中だった」
ぽつりと落ちたその言葉は、いつもの調子よりもわずかに低く、どこか納得していないような響きを含んでいた。
カイルが一瞬だけ目を見開く。
ガイも、わずかに動きを止める。
エリオは続ける。
「中断された」
それだけ。
事実の確認のはずなのに。
その言い方は、どこか引っかかる。
「問題はないが、効率は落ちる」
理屈は通っている。
だが。
ほんのわずかにだけ。
“拗ねているように聞こえる”
沈黙が落ちる。
ガイが眉を寄せる。
「……は?」
理解できない、という顔。
カイルは、そこで小さく息を止める。
(……今の)
違う。
いつものエリオではない。
ほんの少しだけ。
感情が混じっている。
理由は分からない。
だが、確かに。
(……そういう顔、するんだ)
胸の奥が、わずかに痛む。
近くにいたはずなのに。
その表情を引き出したのは、自分ではない。
「……続けるか」
ガイが言う。
だがその声は、どこか不機嫌だ。
エリオは短く答える。
「問題ない」
だが。
さっきと同じ言葉なのに。
どこか、温度が違う。
カイルはゆっくりと息を吐く。
(……なるほど)
すべてを理解したわけではない。
だが。
一つだけ、確かなことがある。
(譲る気はない)
たとえ。
自分が“影響のない側”だとしても。
それでも。
この距離にいる限り、まだ終わりじゃない。




