気づき
夜の帳が完全に降り、集落はすでに静まり返っていた。
ところどころに灯された焚き火の火だけが、風に揺られてかすかに明滅している。
見張りの交代にはまだ時間があるにもかかわらず、ガイは持ち場からわずかに外れた位置に立ち、理由もなくその場に留まり続けていた。
本来ならば、こんな場所で立ち止まっている必要はない。
それでも足が動かないのは、胸の奥に引っかかる違和感が、どうしても消えずに残り続けているからだった。
「……落ち着かねえな」
小さく吐き出した声は夜に溶けていき、返ってくるものは何もないが、それでも思考だけは止まる気配を見せない。
原因は分かっている。
分かっているはずなのに、それを言葉にしようとすると輪郭がぼやけ、掴みかけては逃げていく。
(あいつだ)
エリオ・ベネガス。
何も変わらない顔で、何も感じていないように見えるあの男の姿が、何度も頭の中に浮かび上がる。
(変わってねえはずなのに……)
そう思った瞬間、胸の奥で小さく何かが軋んだ。
変わっていないはずなのに、確実に何かが引っかかっている。
その違和感の正体を探るように、ガイは昼の光景をゆっくりと引きずり出した。
水場。
夕方の光が差し込む中で、エリオの隣に立っていたカイルの姿が、妙に鮮明に思い出される。
(距離、近すぎだろ……)
肩が触れそうなほどの距離で並ぶ二人の姿は、任務中の兵士同士としてはあまりに無防備で、本来ならどちらかが自然に一歩引くはずの位置だった。
だがエリオは動かなかったし、避ける様子も、拒否する気配も見せなかった。
(……いや)
違う。
問題はそこじゃない。
ガイの思考が、ゆっくりと別の一点へと収束していく。
(あの時——)
水を汲む音。
わずかに揺れる光。
そして。
エリオの手が、仮面に触れた。
そのまま迷いなく留め具を外し——
顔を隠していたそれを外した。
(……外した)
はっきりとした記憶。
曖昧さはない。
エリオは、そのまま何事もないように水を口に含み、喉を通していた。
躊躇もなく。
確認するような動きもなく。
ただ、当たり前の動作として。
(なんでだ)
低く、押し殺した声が漏れる。
あの場に命令はなかった。
外す理由もなかった。
それでも、あいつは——
(勝手に外した)
その事実が、重く残る。
ガイは一度目を閉じ、別の記憶を引き寄せる。
血の匂い。
焦げた空気。
エリオが怪我を負った直後。
「外せ」
そう命じたのは、自分だった。
あの時、エリオは一瞬たりとも迷わず、ただ静かに頷いてその指示を受け入れた。
抵抗もなく、疑問もなく、ただ“従うべき判断”として処理しただけの反応。
(あの時は……)
ゆっくりと整理する。
(俺が言ったからだ)
(あいつは、それに従っただけだ)
そこには違和感はない。
任務として正しい行動であり、合理的で、無駄がない。
だが——
(今回は違う)
はっきりと、その差が浮かび上がる。
誰も何も言っていない。
判断を委ねる相手もいない。
本来なら、エリオ自身が判断を下すしかない場面だった。
そしてそれは、医療班の前で仮面を外すことを拒否した時と、同じ構造のはずだった。
(あの時は外さなかった)
任せる理由がないから、自分で判断し、結果として拒否した。
筋は通っている。
一貫している。
(じゃあ、なんで今回は外した)
答えは一つしかない。
(……判断してねえ)
ぽつりと落ちた言葉が、やけに重く響く。
理由もなく。
必要もなく。
ただ自然に。
(考えてなかったのか)
そこに辿り着いた瞬間、すべてが一気に繋がる。
距離。
視線。
カイルの存在。
(あいつの前だと……)
その先を考えた瞬間、呼吸が止まる。
「……は?」
自分の思考に対する違和感が、遅れて押し寄せる。
今、自分は何を比較した。
誰と誰を並べた。
沈黙の中で、その意味だけがはっきりと残る。
(俺の時は、言わなきゃ外さなかった)
(でもあいつの時は——)
言葉にしきれないまま、結論だけが浮かび上がる。
(……違うのかよ)
低く吐き出した瞬間、胸の奥がじわりと熱を帯びる。
理由は分からない。
だが、その感情は確かにそこにある。
(……気に入らねえ)
歯を食いしばる。
納得もできず、理解もできないまま、それでも無視することだけはできなかった。
(なんでだ)
何度目か分からない問いを繰り返した、その時だった。
「……離したくねえ」
ぽつりと零れた言葉に、ガイ自身が息を詰める。
あまりにも自然で、まるで最初からそこにあったかのような感覚。
(……は?)
自分の口から出た言葉の意味を理解しながらも、認めきれない。
否定しようとしても、胸の奥に残る感覚がそれを許さない。
(俺は……)
その先に踏み込めば戻れないことを、本能的に理解してしまい、思考がそこで止まる。
夜風が頬を撫でる。
冷たいはずなのに、身体の内側は妙に熱い。
ガイはゆっくりと顔を上げ、遠くにいるはずのエリオの方向へと視線を向けた。
距離はある。
それでも確かに、“そこにいる”と分かる。
「……明日、聞く」
短く呟いたその言葉には、もう迷いはなかった。
(このままにはさせねえ)
その決意だけが、はっきりと残っていた。




