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異世界で潰れかけの宿を任された俺、 朝粥と売れ残り食材で街の食卓を変えていく 〜はずれスキル『食材帳』の料理人〜  作者: 青い海の人


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【第60話】戻る理由は、もう足りている

 その朝、灰白亭の食堂には、いつも通りの湯気が立っていた。


 黒麦。

 豆。

 鳥脂。

 香味菜。


 鍋の前に立っていると、それだけで一日が始まる感じがする。

 前は、ただ急いで火をつけていただけだった。

 今は違う。


 火が入る前から、席があり、壺があり、返ってきた布が畳まれていて、二階の灯りも確認されている。

 朝は、鍋より先に整い始めていた。


「……ねえ」

 ミアが言った。


「何だ」

 恒一が聞く。


「今朝、ちょっと変な感じ」


「何が」


「足りないものを数えてない」


 その言葉に、恒一は少しだけ鍋から目を上げた。


 ミアは帳場の前に立ち、いつもの帳面を見ている。

 でも、いつものように“次に何を増やすか”という顔ではなかった。


「前はさ」

 ミアが言う。

「壺が足りない、とか」

「うん」

「席の流れがまだ変、とか」

「うん」

「灯りをもう少し、とか」

「うん」

「ずっとそういうのばっかり見てた」

「そうだな」


「でも今日」

 彼女は少しだけ食堂を見回した。

「なんか、足りないより先に、もうあるものの方が見える」


 それはかなり大きい変化だった。


 宿を直している最中は、どうしても不足ばかりが見える。

 でもある時から、足されたものが先に見え始める。


 それはたぶん、宿がちゃんと“残り方”を持ち始めた時なのだろう。


 ドノヴァンとペトルが入ってくる。


 いつもの席。

 いつもの時間。


 ガドも、少し遅れて同じように入ってくる。

 リナは壺を抱え、もう半分食堂の流れの一部みたいな顔をしている。


 初めての旅人も一人いる。

 でも、その顔だけが浮くことはない。


 ちゃんと、今の灰白亭の朝へ混ざっている。


「おはようございます」

 ミアが言う。


 その声に、前みたいな無理はない。

 だからこそ、ちゃんと届く。


 旅人の男が席へ着きながら言った。


「ここ、静かでいいな」


 ミアは少しだけ目を瞬いた。


「朝が?」

 彼女が聞く。


「うん」

 男は答える。

「宿って、朝うるさいと疲れるから」


 前にも似た言葉は聞いた。

 でも今日は、それが食堂の空気とちゃんと重なって見えた。


 ドノヴァンは“昼までぶれない”と言う。

 リナは“気分がぶれにくい”と言う。

 旅人は“静かでいい”と言う。


 同じ鍋なのに、戻る理由は一つじゃない。


「……ねえ」

 ミアが小声で言う。


「何だ」

 恒一が聞く。


「もう、けっこう足りてるのかも」


 恒一はその言葉を少しだけ鍋の湯気越しに受け止めた。


「どういう意味だ」


「戻る理由」

 ミアが言う。

「一つじゃない」

「……」

「朝の粥」

「うん」

「夜の皿」

「うん」

「壺」

「うん」

「部屋」

「うん」

「灯り」

「うん」

「静かさ」

「……」

「それぞれが、誰かにとっての“また来る理由”になってる」


 それは、かなり正確だった。


 前は足りないものを探していた。

 今は、もう揃っているものを見つけ始めている。


 宿の再建は、そういう段階へ来ている。


 朝の流れが終わったあと、ミアは一人で二階へ上がった。


 廊下の灯り。

 角部屋。

 水差し。

 荷物置きの布。


 どれも、最初に比べればずいぶん静かに整っている。


 完璧ではない。

 でも、“足りない”と叫ぶほどでもない。


 階段の手前へ戻って、下の食堂を見下ろす。


 鍋の湯気。

 返ってきた壺。

 器を洗う手。

 朝の終わりの匂い。


「……」


 ミアは少しだけ目を伏せた。


 ずっと、何かを足さなきゃと思っていた。

 もっと良くしなきゃ。

 もっと整えなきゃ。

 もっと強くしなきゃ。


 でも今は、違う。


 もちろん、直すところはまだある。

 もっと良くなる余地もある。

 でも、もう“何もない宿”ではない。


 戻る理由は、もういくつもある。


 その事実に、ようやく自分が追いついた感じがした。


 下へ戻ると、恒一が帳場の横に立っていた。


「どうした」

 彼が聞く。


「見てきた」

「何を」

「足りてるもの」


 恒一は少しだけ笑った。


「そっちを見る日が来たか」


「来たみたい」

 ミアも少しだけ笑う。

「前は、足りないものばっかり数えてた」

「うん」

「でも、今はもう違う」

「……」

「戻る理由、ちゃんとあるね」


 その言い方は、かなり静かだった。

 でも、この宿にはそれで十分だった。


 派手な成功ではない。

 でも、宿として残るには十分な積み上がりだ。


「帳面」

 恒一が言う。


「うん」


「書いとけ」


 ミアは帳面を開く。


 しばらく迷わなかった。

 そのまま、今日の言葉を書く。


 戻る理由は、もう足りている


 書いてから、その字を少しだけ見た。


「……これ」

「うん」

「かなりいい」

「かなりな」


 恒一が頷く。


「何かを足すための言葉じゃない」

「うん」

「今あるものを見失わないための言葉だ」

「……」

「それ、今の灰白亭にかなり大事だろ」

「そうだね」


 昼の光が少しずつ食堂へ入ってくる。


 鍋は空だ。

 でも匂いは残っている。

 壺も戻る。

 席もある。

 部屋もある。

 灯りもある。


 前は、何を足せば宿になるか分からなかった。

 今は違う。


 もう戻る理由は、いくつもある。


 この宿は、まだ大きくはない。

 でも、帰ってくる人をちゃんと受け止められるだけの理由は、もう十分に持っているのだろう。

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