【第59話】一皿は、街に残るか
市場の朝は、今日も灰色だった。
濃いタレ。
焦げた粉。
油。
急いで腹を塞ぐための匂い。
でも、前とまったく同じ灰色ではない。
恒一はそれを通りへ入った瞬間に感じた。
ミアも同じだったらしく、何も言わずに少しだけ鼻を動かしている。
「……混ざってる」
先に言ったのはミアだった。
「何が」
恒一が聞く。
「前になかった匂い」
「……」
「ちょっとだけだけど」
二人は通りの端へ寄る。
屋台の一つで、若い男が鍋をかき回していた。
前に苦香根を串へ付けて出していた男だ。
今日の鍋からは、前ほど荒くない匂いがしていた。
苦香根の癖は残っている。
でも、ただ前へ押し出すだけの匂いじゃない。
少しだけ、後ろへ残す方向へ寄っている。
「……」
ミアが黙る。
「見に行くか」
恒一が聞く。
「行く」
ミアが答えた。
近づくと、若い男がこちらに気づいた。
前みたいに露骨に顔をしかめることはしない。
ただ、少しだけ気まずそうだ。
「また来たのか」
男が言う。
「また来た」
恒一が返す。
「文句言いに?」
「違う」
ミアが言う。
「前よりましになってるから見に来た」
男が一瞬だけ目を丸くした。
「……」
「苦香根、前より前に出すぎてない」
ミアが続ける。
「塩、ちょっと引いた?」
「……引いた」
男がぼそりと言う。
「あと、火も少し弱めた」
「そう」
「前のあんたの言い方、腹立ったけど」
男は鍋を見たまま言う。
「後で考えたら、悔しいけど当たってた」
「……」
「だから少し変えた」
その言葉に、恒一は少しだけ頷いた。
真似ではない。
でも、前より少しだけ出口の精度が上がっている。
「売れてる?」
ミアが聞く。
「前よりは」
男が言う。
「“変わった根”って顔じゃなくて、“なんか残る”って言われるようになった」
その言葉はかなり重かった。
灰白亭の皿そのものではない。
でも、苦香根という食材の“残り方”が、少しだけ街の中へ広がり始めている。
「……ねえ」
ミアが小さく言う。
「何だ」
「これ、ちょっとすごいかも」
「うん」
恒一が答える。
目の前の皿は灰白亭のものではない。
それでも、“苦いだけじゃない”方向へ動いている。
それはつまり、
灰白亭が食材に作った出口が、街の中へ少し残り始めているということだ。
通りをもう少し進む。
今度は、汁物を出す小さな食堂から匂いが流れてきた。
魚臭いわけではない。
でも、干鱗魚の底に近い、少し締まった旨味の匂いがある。
「……」
ミアが足を止める。
「こっちもか」
恒一が言う。
食堂の前で椀を拭いていた女が、二人に気づいた。
「あんたら、灰白亭だろ」
「そうだけど」
ミアが答える。
「最近、干した魚を汁の底に入れてるって聞いてね」
女が言う。
「真似したってほどじゃないけど、前より少しだけ使い方を変えた」
それは驚くほどまっすぐな言い方だった。
隠さない。
でも、盗んだわけでもないと言いたい顔でもある。
「どう?」
恒一が聞く。
「客の反応は悪くないよ」
女は言う。
「前より“軽いのに残る”って」
「……」
「ただ、あんたらのとこのみたいに静かにはならない」
「そうだろうな」
恒一が答える。
ミアはその会話を聞きながら、少しだけ複雑な顔をしていた。
外で変わる。
真似される。
でも、そこに少しでも食材の出口が増えるなら悪いことでもない。
分かっている。
でもやっぱり、落ち着かない。
「……ねえ」
ミアが言う。
「何だ」
「これ、うれしいのに、ちょっと寂しい」
「うん」
恒一も頷く。
「分かる」
灰白亭の皿だったものが、街の中で少しずつ別の顔になる。
完全に同じではない。
でも、前にはなかった流れができている。
その感じは、宿の外で子どもが育っていくのを見るみたいに落ち着かなかった。
苦香根の台の前では、老婆がもうその顔を見ただけで分かったらしい。
「見たかい」
開口一番だった。
「見た」
恒一が答える。
「前より少しはましになってた」
ミアが言う。
「そうだろうねぇ」
老婆は鼻を鳴らす。
「一回誰かが出口を見つけると、街ってのは遅れて動くもんだ」
「……」
「でも、全部が同じ皿になるわけじゃない」
「うん」
「だから残るんだよ」
その言い方は、妙に腑に落ちた。
灰白亭の苦香根が、そのまま街中へ複製されるわけじゃない。
でも、“苦いだけの売れ残り”という食材だったものが、
少しずつ別の出口を持ち始める。
それで十分なのかもしれない。
「ねえ」
ミアが言う。
「何だ」
「これって、結局どう見ればいいのかな」
「……」
「取られたって見るのか」
「うん」
「増えたって見るのか」
老婆は木箱を整えながら答えた。
「半分ずつだよ」
「また半分」
ミアが小さく言う。
「そりゃそうさ」
老婆は笑った。
「あんたらが作った皿そのものは、もうあんたらだけのもんじゃない」
「……」
「でも、苦香根って食材の出口は増えた」
「……」
「それが嫌なら、最初から売れ残りのままにしとくしかなかったね」
その言葉は、かなり正しかった。
出口を作るというのは、食材を動かすことだ。
動けば、いずれ自分たちの手を離れる部分も出る。
でも、だからといって最初から閉じていたら、この街に何も残らない。
ミアは少しだけ黙って、それから頷いた。
「……増えたってことにしとく」
「それでいい」
老婆が言う。
「ただし」
「何?」
「残り方で負けるな」
「……」
「“苦香根なら灰白亭”って思わせるのは、まだできるだろ」
「そうだな」
恒一が言う。
そこはまだ守れる。
食材の出口は増える。
でも、灰白亭の残り方は灰白亭のものとして磨ける。
帰り道、ベルノの屋台の前で足が止まる。
今日は客が少なく、ちょうど片付けの手前だった。
「顔で分かるな」
ベルノが言う。
「何が」
ミアが聞く。
「見たんだろ」
「見た」
ミアが言う。
「苦香根も」
「うん」
「干鱗魚も」
「……」
「前より少し、街で動いてた」
ベルノは小さく頷いた。
「そりゃそうだ」
「そんな簡単に言う?」
「市場はそういうもんだ」
ベルノは答える。
「出口を一個作れば、あとは勝手に遅れて動く」
「……」
「でも」
ミアが言う。
「それで全部うれしいわけじゃない」
「だろうな」
「ちょっと寂しい」
「だろうな」
「なんで二回言うのよ」
「その顔してるからだよ」
ミアは少しだけ黙った。
そしてぽつりと言う。
「……うちの皿だったのにな、って思う」
ベルノはそれを聞いて、少しだけ目を細めた。
「でも、お前らは宿だろ」
「……」
「街に残るもん作りてぇんじゃなかったのか」
「そうだけど」
「なら、一個くらい街に渡って当然だ」
「……」
「その代わり、戻る理由は残せ」
「戻る理由」
「そう」
ベルノは言う。
「街で少し広がっても、“やっぱ灰白亭の方が残る”ってなればいい」
「……」
「真似されないことより、戻ってくる理由を持ち続ける方が強ぇよ」
その言葉に、ミアは静かに頷いた。
前にも聞いた話だ。
でも今日は、前よりずっと腹に落ちた。
灰白亭へ戻る。
食堂の中には、朝の名残と昼の静けさが少しずつ混ざっていた。
帳場の上へ帳面を開く。
ミアはしばらく迷ってから、静かに書く。
一皿は、街に残ってもいい
でも、戻る理由は残し続ける
「いいな」
恒一が言う。
「ほんと?」
ミアが聞く。
「かなり」
「今日は、それでいい」
ミアは帳面を閉じる。
少しだけ寂しい。
でも、ちゃんと前へ進んでいる。
灰白亭が街に残したものは、皿そのものではないのかもしれない。
食材に出口がある
という考え方の方だ。
そしてその上で、灰白亭の皿として戻ってきたくなる理由を残し続ける。
それが、この宿の強さなのだろう。




