表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界で潰れかけの宿を任された俺、 朝粥と売れ残り食材で街の食卓を変えていく 〜はずれスキル『食材帳』の料理人〜  作者: 青い海の人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

50/63

【第50話】 教えることは、薄めることじゃない

 その朝、灰白亭の食堂はいつもより少しだけ慌ただしかった。


 鍋の火はいつも通り。

 黒麦と豆もいつも通り。

 持ち帰りの壺も、壁際へ順番に並んでいる。


 違うのは、帳場の前に見慣れない顔が一つあることだった。


 紙屋の奥さんの妹――名をエナというらしい――が、少し落ち着かない顔で立っている。


「……ほんとに聞いていいの?」

 エナが言う。


「全部はだめ」

 ミアが即答した。


「そこは早いのね」


「そこは大事だから」

 ミアは言う。

「でも、持ち帰りの布の巻き方とか、朝の流れの作り方とか、そのへんならいい」

「……」

「なんでそんなに驚いてるの」

「もっと怒られるかと思ってた」

「怒らないわよ」

 ミアは少しだけ肩をすくめた。

「ちゃんと聞いてくる人には」


 恒一は鍋の前で、そのやり取りを聞きながら少しだけ目を細めた。


 前なら、ミアは“教える”こと自体にもっと身構えていたはずだ。

 今は違う。


 全部は渡さない。

 でも、渡しても灰白亭が薄まらないところは、ちゃんと見分け始めている。


「ねえ」

 エナが言った。

「何?」

 ミアが聞く。

「どうしてそこは教えていいの?」


 ミアは少しだけ考えた。


 それから、言葉を選ぶように口を開く。


「……壺の布って」

「うん」

「うちの味そのものじゃないの」

「……」

「でも、持ち帰った人が困らないためには大事」

「うん」

「だから、そこはたぶん、増えても困らない」

「……」

「むしろ、外で使いやすくなった方が、灰白亭にも返ってくる」


 その言い方は、かなり良かった。


 感覚だけじゃない。

 ちゃんと“どうして教えていいのか”を言葉にしている。


 エナは少しだけ驚いた顔をしていた。


「なんか」

 彼女が言う。

「思ったより、ちゃんと考えてるのね」


「失礼ね」

 ミアが言う。


「いや、もっと感覚だけでやってるのかと」


「前はそうだったかも」

 ミアは少しだけ笑う。

「でも今は、宿の人なので」


 その返しに、恒一は小さく笑った。


 もうそれは、ただの決まり文句じゃない。

 ミアが自分の立ち位置を確認するための言葉になっている。


 持ち帰りの流れが一段落したところで、ミアは壺を一つ持ち上げた。


「見る?」

「うん」

 エナが頷く。


「まず、布は厚すぎないやつ」

 ミアが言う。

「厚いと熱は守るけど、今度は洗いにくい」

「……」

「薄すぎると持てない」

「……」

「だからこのくらい」


 布を巻く。

 結ぶ位置。

 指を引っかける場所。

 持ち上げた時に口がずれない締め方。


 ミアの手は、もうかなり慣れていた。


「すごい」

 エナが言う。


「まだよ」

 ミアが言う。

「これは壺の話」

「まだあるの?」

「ある」

 ミアは少し得意そうに言う。

「声のかけ方」

「……」

「返却の一言」

「……」

「あと、渡す順番」

「そんなに?」


「そんなに」

 ミアが言った。

「持ち帰りって、鍋の外で食べられるから楽そうに見えるけど」

「うん」

「そのぶん、鍋の中じゃ見えないところを先に考えないといけないの」


 それはもう、かなり宿の人の言葉だった。


 恒一は鍋を混ぜながら思う。


 ミアはずっと、宿の娘ではあった。

 でも今は、ようやく宿のやり方を人へ渡せる側に立ち始めている。


「ねえ」

 エナが言う。

「何?」

 ミアが聞く。

「じゃあ、粥そのものは?」

「それはだめ」

 ミアがすぐ言った。


「即答なんだ」


「そこは鍋だから」

「……」


 少しだけ間があく。


 エナは壺を見る。

 食堂を見る。

 鍋の湯気を見る。


「違い、あるんだ」

 彼女が言う。


「かなり」

 ミアは答えた。

「壺は外へ渡る」

「うん」

「でも、灰白亭の朝そのものは渡らない」

「……」

「そこは、ここでしか作れないから」


 その線引きは、かなり明確だった。


 味の全部を囲い込むわけじゃない。

 でも、宿としてしか成立しないところは残す。


 ミアはそこをもうちゃんと言葉にできる。


 そこへ、リナが壺を返しに入ってきた。


「おはよう」

 ミアが言う。

「おはよう」

 リナは答えて、エナを見た。

「あ、来てたんだ」


「うん」

 エナが少しだけ照れたように言う。

「壺の巻き方見せてもらってた」

「へえ」

 リナは笑う。

「ちゃんと教えてるんだ」


「全部じゃないけどね」

 ミアが言う。

「そこは大事」


 リナはその返事に頷いた。


「それでいいと思う」

「……」

「全部渡すと、今度は灰白亭じゃなくなるし」

「……」

「でも、渡せるところは渡した方が、街の朝がちょっと良くなる」

「……」


 その言葉に、ミアは少しだけ目を細めた。


 街の朝がちょっと良くなる。

 それはたしかに、この宿がいまやりたいことに近い。


「ねえ」

 ミアが言う。

「何?」

 リナが聞く。

「教えることって、薄めることじゃないのかもね」

「……」

「ちゃんと選べば」

「うん」

「増やせるものもある」

「そうだと思う」

 リナが答えた。


 エナも、小さく頷く。


「今日聞いたの、たぶんそこだ」

「何が?」

 ミアが聞く。


「“何を教えるか”を決めてる感じ」

「……」

「全部じゃない。でも、閉じてもない」


 その言い方は、かなり今の灰白亭らしかった。


 開きすぎず、閉じすぎず。

 鍋の外へ出すものの行き先を選ぶ。


 それは、味だけの話ではなく、宿のやり方そのものの話だった。


 朝の流れが終わったあと、ミアは帳面を開いた。


 しばらく迷ってから、静かに書く。


 教えることは、薄めることじゃない

 選べば、増やせる


 その字を見て、恒一が言う。


「いいな」


「ほんと?」

 ミアが聞く。


「かなり」

「今日はその“かなり”、ちょっと信用してる」


 恒一は少しだけ笑った。


「成長だな」


「そっちが言う?」


 ミアも少しだけ笑う。


 食堂にはまだ、朝の鍋の匂いが残っていた。

 その匂いは、前なら全部ここへ閉じていたはずだ。


 今は違う。

 どこまで渡すか。

 どこまで残すか。

 その線を引いたまま、少しずつ外へ出していける。


 灰白亭は、教えることで薄まる宿ではなかった。

 選んで渡すことで、むしろ輪郭を強くしていく宿だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ