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異世界で潰れかけの宿を任された俺、 朝粥と売れ残り食材で街の食卓を変えていく 〜はずれスキル『食材帳』の料理人〜  作者: 青い海の人


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【第49話】 港町の匂いは、まだ遠い

 サーシャの置き土産は、帳場の引き出しの奥ではなく、今ではその一歩手前に置かれていた。


 小さな紙片。

 南の港町。

 干し魚の市場。


 完全にしまい込んだわけではない。

 でも、すぐ出発できるほど近くもない。


 それが、今の灰白亭とその紙片の距離だった。


「……近づいたような、まだ遠いような」

 ミアが紙片を見ながら言う。


「港町か」

 恒一が聞く。


「うん」


 帳場の上には、いま使っている仕入れ帳と、その紙片が並んでいる。

 目の前の鍋と、まだ手の届かない次の市場。

 どちらも大事だが、同じ重さではない。


「行きたい?」

 恒一が聞いた。


 ミアは少しだけ考えてから答える。


「行ってみたい」

「うん」

「でも、今じゃない」

「そうだな」


 その答えに迷いは少なかった。


 朝の鍋をぶらさず、

 持ち帰りを回し、

 部屋の灯りを守り、

 苦香根と干鱗魚の位置を定める。


 今の灰白亭には、まだやるべきことが十分ある。


 それでも、港町の匂いは頭のどこかに残っていた。


「ねえ」

 ミアが言う。

「何だ」

「行けないけど、無視したくはない」

「うん」

「そういうのって、どう扱えばいいんだろ」

「……」

「次の可能性、みたいなやつ」


 恒一は少しだけ笑った。


「置いとけばいい」

「それだけ?」

「今はな」

「雑」

「でも、そういうものだろ」

 恒一は答える。

「すぐ鍋に入れられない食材だって、匂いだけ覚えておくことはある」

「……」

「市場もたぶん同じだ」


 その言い方は、かなり料理人らしかった。


 今はまだ鍋に入れられない。

 でも、匂いを忘れない。

 その距離感が、たぶんちょうどいい。


 その日の市場で、二人は乾物の並ぶ通りを少し長めに歩いた。


 目的は買い物というより、確認だった。


 南の港町へ行かずとも、この街へ流れてくる干し魚や塩漬けがどの程度あるのか。

 どんな匂いで、どんな顔をしているのか。


「……いるね」

 ミアが言う。


「うん」

 恒一も答える。


 木箱の中に、小ぶりの干し魚。

 塩の吹いた切り身。

 焼く前提の平たい魚。

 そのままじゃ鍋に強すぎるが、底へ使えるかもしれないもの。


 全部が“港町の気配”だった。


「この街にも、少しは流れてる」

 ミアが言う。


「そうだな」

「でも、やっぱり本場とは違う感じする」

「うん」

「匂いが薄いっていうか、流通の途中っていうか」

「それもある」


 食材帳の上で、イーリスが文字を浮かべる。


 ――港由来食材:少量流入を確認

 ――ただし選択肢は限定的です


「限定的、ね」

 ミアが言う。

「要するに“まだ足りない”ってこと?」

「概ね正しいです」

 イーリスが答える。


「今日は分かりやすいわね」

「必要だからです」


 市場の奥、塩気の強い匂いがたまる一角で、二人は少し足を止めた。


 そこに並んでいたのは、戻しに時間がかかりそうな細身の干し魚だった。

 前に使った干鱗魚より少し大きく、匂いも強い。


 ミアが顔をしかめる。


「……これ、今のうちにはきついかも」


「うん」

 恒一が答える。

「今やると、干鱗魚と喧嘩する」

「そうよね」

「それに」

 恒一は魚を指で押した。

「戻し方も、塩の抜き方も、今の鍋にはまだ一手多い」

「……」

「そういうの、分かるようになってきたね」

 ミアが言う。


「前よりはな」


 前なら、“面白そうだから試す”が先に来ていたかもしれない。

 今は違う。


 鍋の芯を崩さないか。

 灰白亭の今に合うか。

 その線を先に見る。


「ねえ」

 ミアが言う。

「何だ」

「港町、やっぱり今じゃないね」

「そうだな」

「でも」

 彼女は干し魚の箱を見た。

「今じゃないって分かるのも、ちょっと前進かも」

「……」

「前は、見たらすぐ鍋に入れたくなってた」

「それはそれで料理人っぽいけどな」

「私は宿の人なので」


 その返しに、恒一は少しだけ笑った。


 市場を戻る途中、ベルノの屋台の前を通る。


 今日は客が二人並んでいるだけで、珍しく少し余裕があった。


「よう」

 ベルノが言う。

「よう」

 恒一が返す。


「なんか探してた顔してんな」

「探してた」

 ミアが言う。

「何を」

「まだ遠いやつ」


 ベルノが少しだけ眉を上げた。


「……面倒くさい言い方だな」

「そう?」

「でも分かる」

 ベルノは肩をすくめた。

「市場ってのはそういうもんだ。今の鍋には早い匂い、みたいなもんがある」


 その言い方は、ちょうどよかった。


「港の方の気配」

 恒一が言う。


「へえ」

 ベルノは少しだけ目を細める。

「もうそこ見てんのか」

「見るだけ」

 ミアが言う。

「今はまだ行かない」

「それでいい」

 ベルノは即答した。

「遠い匂いは、今すぐ追うと大体こける」

「……」

「でも、覚えてるやつはそのうち拾う」


 その言葉が、妙に残った。


 今すぐじゃない。

 でも、忘れない。


 それはたぶん、今の灰白亭にとってかなり大事な態度だった。


 灰白亭へ戻る。


 食堂には昼の光が静かに差し、帳場の上の紙片がまだそこにある。


 ミアはそれを手に取り、少しだけ見たあと、帳面へ挟み直した。


 今度は引き出しの奥ではなく、

 仕入れ帳の後ろに。


「そこ?」

 恒一が聞く。


「うん」

 ミアが答える。

「今じゃないけど、今の続きを書く場所だから」

「……」

「完全に先の話じゃない」

「そうだな」

「今の鍋をちゃんと回した、その先にある話」

「うん」


 その整理は、かなり良かった。


 港町は夢ではない。

 でも、今すぐ飛びつく未来でもない。


 今の灰白亭が一歩ずつ伸びていった、その延長線の先にある。


「ねえ」

 ミアが言う。

「何だ」

「これ、なんか好き」

「何が」

「まだ遠いけど、ちゃんと繋がってる感じ」

「……」

「希望っていうより、匂い」

「いい言い方だな」

「かなり?」

「かなり」


 ミアは少しだけ笑った。


 港町の匂いは、まだ遠い。

 でも、その遠さはもうただの夢ではない。


 灰白亭の鍋の先に、ちゃんと続いている遠さだった。

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