【第39話】 持ち帰りの向こう側
その朝、灰白亭の帳場には、洗った壺がずらりと並んでいた。
大きさはまちまち。
口の広いもの、少し細いもの、持ち手のあるもの、布を巻きやすい形のもの。
全部、新品ではない。
でも、今の灰白亭にとってはどれも立派な商売道具だった。
「……増えたわね」
ミアが言う。
「増えたな」
恒一が答える。
「前は邪魔だったのに」
「今日は違う」
「そうね」
壺の口を拭きながら、ミアは少しだけ笑った。
持ち帰りが増えてから、食堂の中だけでは見えなかったものがいくつも見えてきた。
壺が足りるか。
どのくらい冷めるか。
返却される数と、戻らない数。
店で食べる一杯とは別の難しさがある。
「ねえ」
ミアが言う。
「何だ」
「これ、かなり面倒」
「そうだろうな」
「でも、思ったより大事」
「かなりな」
恒一は鍋へ黒麦を落とした。
店で食べる客だけなら、席と器と流れだけ見ればいい。
でも持ち帰りは違う。
壺に入れた瞬間から、飯はもう宿の外へ出ていく。
温度も、固さも、匂いの残り方も、少しずつ条件が変わる。
「今日は?」
ミアが聞く。
「持ち帰り多めを見込む」
恒一が答える。
「なんで」
「昨日のリナのとこ見ただろ」
「……」
「布屋だけじゃない」
「うん」
「持って行かれた先で、また別の誰かに見られてる」
「そうね」
「だから、店で食う分と同じじゃ足りない」
「……」
ミアは帳面を引き寄せた。
「つまり?」
「つまり」
恒一は鍋の蓋を少しずらす。
「持ち帰りは、別の料理だ」
「……」
「同じ粥でもな」
「それ、かなり大事じゃない?」
「かなり大事だ」
その言葉に、ミアはすぐに書いた。
持ち帰りは、別の料理
「ちょっと大げさ?」
ミアが聞く。
「いや」
恒一が答える。
「かなりそのままだ」
朝の鍋は、店で出すには少しゆるめがちょうどいい。
でも壺へ入れて持ち歩けば、熱と時間で粘りが増す。
同じ匙の感覚ではだめだ。
「今日は水分を少し切る」
恒一が言う。
「店の客には?」
「店の分は最後に少し湯を足す」
「そんなことまで?」
「そこをやると、戻ってくる」
食材帳の上で、イーリスが淡く文字を浮かべた。
――持ち帰り時は水分量を一割減
――保温布使用時、粘度上昇に注意
「今日はいいことしか言わないわね」
ミアが帳面を見る。
「料理工程ですので」
イーリスが答える。
「そこは本当に頼りになるのよね」
壺を布で巻く。
口を閉じる。
置く順番を変える。
持ち帰りの数が増えると、帳場の仕事まで変わってくる。
前はただ壺を並べていただけだった。
今は、返却と回転まで考えなければいけない。
「ねえ」
ミアが言う。
「何だ」
「壺代、ちょっと変えた方がいいかも」
「どう変える」
「今は返ってこなかったらそのまま売り切り扱いでしょ」
「うん」
「でも、壺を返しに来る人って、ついでにまた買ってくれるのよ」
「……」
「だったら、返ってきた時の一枚って、ただの返却じゃない」
「うん」
「次に戻るきっかけにもなってる」
恒一は少しだけ目を細めた。
いい見方だと思った。
壺はただの容器ではない。
宿と街を往復する、小さな導線だ。
「じゃあ?」
恒一が聞く。
「壺代はそのまま」
ミアが言う。
「でも、返却の時に一言入れる」
「一言?」
「“またどうぞ”でいい」
「……」
「その一言で、壺が戻るだけじゃなくて、人も戻りやすくなる」
「かなりいいな」
「ほんと?」
「かなり」
「今日は多いわね、それ」
「多い日だな」
その時、扉が開いた。
リナだった。
今日は壺を二つ返しに来たらしい。
「おはよう」
彼女が言う。
「おはよう」
ミアが答える。
「壺ありがとう」
「うん。あと今日も二つ」
「でしょうね」
ミアは自然に壺を受け取った。
そのやり取りに迷いがない。
持ち帰りがもう特別なことではなくなってきている。
「ねえ」
ミアが言った。
「何?」
リナが聞く。
「またどうぞ」
リナは一瞬だけ目を瞬いた。
それから、少しだけ笑う。
「うん。また来る」
たったそれだけのやり取りなのに、ミアの顔が少しだけ変わった。
「……」
「どうした」
恒一が小声で聞く。
「今の」
ミアが言う。
「効くね」
「だろ」
「壺だけ戻ってるんじゃない感じする」
「そうだな」
リナは二つ分の粥を受け取りながら、ふと思い出したように言った。
「そうだ」
「何?」
ミアが聞く。
「隣の紙屋の奥さん、今度から朝は壺持って寄るって」
「また増えたの?」
「うん」
「なんで」
「“朝は手を止めたくないけど、屋台の固いのじゃしんどい”って」
その言葉は、またしてもうまいではなかった。
でも、かなり強かった。
しんどい。
手を止めたくない。
そういう生活の都合に灰白亭の粥が入ってきている。
「……ねえ」
ミアが言う。
「何だ」
「これ、持ち帰りっていうより」
「うん」
「朝そのものを外へ運んでる感じしない?」
恒一は少しだけ笑った。
「かなりその通りだな」
リナが壺を抱え直す。
「じゃ、急ぐね」
「うん」
ミアが答える。
「またどうぞ」
「うん、また来る」
リナが出ていく。
扉が閉まったあと、食堂にはまた朝の鍋の匂いだけが残った。
でも、その匂いはもう、ここだけに留まるものじゃない。
「……ねえ」
ミアが言う。
「何だ」
「壺って」
「うん」
「面倒だけど、かなり大事ね」
「そうだな」
「席を増やさなくても、外に席が増えるみたい」
「……」
「布屋の裏でも、現場でも、家でも」
「うん」
「灰白亭の粥が食べられる」
「そうだ」
その実感は、持ち帰りを“便利なオプション”から引き上げた。
これはもう、宿の外へ届く一つの柱だ。
ミアは帳面を開き、今度は迷わず書いた。
壺は、外の席
「いいな」
恒一が言う。
「ほんと?」
「かなり」
「よかった」
ミアは少しだけ頷いた。
「前はさ」
彼女が言う。
「何だ」
「店って、扉の内側だけだと思ってた」
「うん」
「でも違うね」
「……」
「持ち帰りが増えると、店の外にも朝ができる」
「そうだな」
鍋の蓋を少しずらす。
湯気が静かに立つ。
その湯気は、器だけじゃなく、壺にも入る。
そして、人の手で街へ運ばれていく。
灰白亭の朝は、少しずつ食堂の外で席を増やしていた。




