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異世界で潰れかけの宿を任された俺、 朝粥と売れ残り食材で街の食卓を変えていく 〜はずれスキル『食材帳』の料理人〜  作者: 青い海の人


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【第40話】 領主家の食卓には乗らない皿


 エドガー・ヴァレントが三度、灰白亭へ現れたのは、空気の乾いた夕方だった。


 市場のざわめきはまだ完全には引いていない。

 でも、朝の勢いとも昼の濁りとも違う、少しだけ静かな時間だ。


 この時間に来る時のエドガーは、だいたい用件がある。


 ミアは、扉が開いた瞬間にそう思った。


「いらっしゃいませ」


 声は自然に出た。

 初めて来た時ほど身構えなくなっている。

 それでも、相手がただの客ではないことはもう分かっている。


「こんばんは」

 エドガーが言う。

「食事は可能ですか」


「軽いものでよければ」

 ミアが答える。

「では、それを」


 恒一は厨房からその姿を見ていた。


 同じ濃紺の外套。

 同じ無駄のない立ち方。

 でも、前より少しだけ視線が柔らかい。


 柔らかいと言っても、親しさではない。

 前より具体的に、この宿を見に来ているという意味での変化だった。


「今日は何」

 ミアが小声で聞く。


「苦香根」

 恒一が答える。

「あと、少しだけ薄焼き」

「軽いわね」

「この人には、重い皿で押さない方がいい」

「……」

「見に来てる時の客には、宿の輪郭を見せた方がいい」


 ミアは小さく頷いた。


 苦香根を火にかける。

 鳥脂をほんの少し。

 出汁を静かにまとわせる。

 塩は控えめに、でも輪郭は消さない。


 薄焼きは、黒麦の香りを立たせるだけの薄さにする。

 主役ではないが、灰白亭の朝と夜を一本でつなぐ匂いになる。


 食堂へ運ぶ。


 エドガーは皿を見て、ほんの少しだけ目を細めた。


「前より、説明が少なくなりましたね」


「何の」

 ミアが聞く。


「皿の」

 エドガーが答える。

「前は“これはこういう食材です”と先に説明していた」

「……」

「今日は、まず出す」

「その方がいいと思ったので」

 ミアが言った。


 エドガーは小さく頷く。


「ええ。宿らしいです」


 その一言に、ミアは少しだけ肩の力を抜いた。


 皿を前にした客へ、全部を説明しすぎない。

 食べて、残って、そこから言葉になる余地を残す。

 それもこの数十話で覚えたことの一つだった。


 エドガーは苦香根をひと口食べる。


 少しだけ間。

 それから薄焼きをちぎり、皿の端へ触れさせて口に運ぶ。


「……やはり」

 彼が言った。

「この宿は、上に伸ばす飯ではないですね」


 ミアが一瞬だけ眉を上げる。


「上?」

「領主家の食卓にそのまま出すような皿ではない、という意味です」

 エドガーが言う。

「もっと強い塩、もっと分かりやすい高級さ、もっと“見せる”皿を求められる」

「……」

「ですが、灰白亭の皿はそうではない」

「違うな」

 恒一が答える。


「でしょうね」

 エドガーは言う。

「これは、旅人と街の人間のための皿です」


 その言い方は、かなり正確だった。


 豪華な皿ではない。

 誰かに見せるための皿でもない。

 でも、腹に落ちて、記憶に残って、また戻る理由になる。


 灰白亭の皿は、そういう方向へ育ってきた。


「前にも言いましたが」

 エドガーが続ける。

「領主家から見て、価値がある食は必ずしも上等なものとは限りません」

「……」

「ですが、上等な食を期待する側も多い」

「そうね」

 ミアが言う。

「“もっと上へ行ける”って話になるんでしょ」

「ええ」


 エドガーは薄焼きを置いた。


「灰白亭がこのまま目立っていけば、いずれそういう期待も来るでしょう」

「……」

「もっと値を上げろ」

「うん」

「もっと客を選べ」

「うん」

「もっと“上の皿”を作れ」

「……」


 ミアは少しだけ黙った。


 それは、ありそうな話だった。


 実際、クルトの提案にも似た匂いがあった。

 便利そうに見える。

 でも、その方向へ行けば、灰白亭の鍋は少しずつ別のものになる。


「ねえ」

 ミアが言う。

「何ですか」

「あなたは、そうした方がいいと思う?」

 エドガーは、すぐには答えなかった。


 その代わり、食堂をもう一度見回した。


 壺。

 帳場。

 階段。

 壁の灯り。

 厨房からまだ残る朝の匂い。


「……いいえ」

 やがて彼は言った。

「少なくとも、今の灰白亭はそこへ行くべきではない」

「どうして」

 ミアが聞く。


「この宿の強さは、上へ向かうことではなく、戻る理由を増やすことだからです」

「……」


 その言葉は、まっすぐだった。


 朝の粥。

 持ち帰りの壺。

 苦香根の皿。

 迎える部屋。

 また泊まる理由。


 全部がそちら側に積み上がっている。


「じゃあ」

 恒一が聞く。

「このままでいいってことか」


 エドガーは小さく首を横に振る。


「“このまま”ではありません」

「……」

「磨くべきです」

「何を」

「誰のための宿かをもっとはっきり」

「……」


 ミアが、その言葉を受けて少しだけ目を細めた。


 たしかにそうだ。

 灰白亭はいま、何となく良い宿にはなってきている。

 でも、“誰のためか”まで言葉にできているわけではない。


「ねえ」

 ミアが言う。

「何だ」

 恒一が答える。


「うちって、誰のための宿だと思う?」


 恒一は少しだけ考えた。


 旅人。

 常連。

 持ち帰る街の人。

 働く前に腹を整えたい人。

 夜にちゃんと休みたい人。


「……急いでる人と、疲れてる人のためかな」

 彼が言う。

「……」

「朝は急いでる」

「うん」

「夜は疲れてる」

「うん」

「その両方を少しちゃんとする宿だ」

「……」


 ミアは、その言葉をしばらく黙って受け取った。


 そして、帳面を引き寄せる。

 少しだけ迷ってから、短く書いた。


 急いでる人と、疲れてる人の宿


「長いわね」

 恒一が言う。


「でも今はこれでいい」

 ミアが答える。

「かなり灰白亭っぽいから」

「そうだな」


 エドガーが、その言葉を静かに見た。


「悪くありません」

 彼が言う。

「少なくとも、上へ見せるための宿ではなさそうだ」

「……」

「その線を今のうちに自分たちで決めておくべきです」


 その忠告は、かなり重要だった。


 上へ行けるかもしれない。

 もっと目立てるかもしれない。

 もっと高く売れるかもしれない。


 でも、その方向が本当に灰白亭の鍋を守るのかは別だ。


 エドガーは最後の一口を食べて立ち上がる。


「また来ます」

 彼が言う。


「食べに?」

 ミアが聞く。


「半分は」

 エドガーが答える。

「残り半分は、見に」

「……」

「この宿が、自分で決めた線を守れるかどうかを」


 それだけ言って、彼は扉の外へ消えた。


 しばらくしてから、ミアがゆっくり息を吐いた。


「……面倒ね」


「かなりな」

 恒一が答える。


「でも、ちょっと分かった」

「何が」

「広げるかどうかの前に」

 ミアは帳面の字を見る。

「誰のための宿かを決める方が先だったんだね」


「そうだな」


 帳場の上には、まだ新しい字が乾ききっていない。


 急いでる人と、疲れてる人の宿


 それは派手な言葉ではなかった。

 でも、今の灰白亭にはかなりよく似合っていた。

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