【第38話】リナの朝、ドノヴァンの昼
その朝、灰白亭の鍋はいつもより少しだけ早く減った。
混んでいたわけではない。
客席は相変わらず全部埋まるほどではないし、声もそこまで大きくない。
ただ、流れが速かった。
リナが壺を受け取り、
ドノヴァンとペトルが席を立ち、
ガドが二杯目を急かし、
見知らぬ男が「持って帰れるなら」と壺を買っていく。
前なら、一人ひとりに気を取られて流れが止まっていただろう。
今は違う。
鍋も、壺も、席も、少しずつ“朝の仕事”としてつながり始めている。
「……早い」
ミアが言う。
「流れができてるからな」
恒一が答える。
「前より客が増えたっていうより、前より回る感じ」
「そうだな」
「それも宿の力?」
「たぶんな」
ミアは少しだけ考え込み、帳面へ何か書こうとしてやめた。
「どうした」
恒一が聞く。
「今の感じ、まだ言葉にならない」
「そのうちなる」
「便利な言い方」
その時、リナが壺を抱え直しながら言った。
「じゃ、今日は急ぐね」
「何かあるの?」
ミアが聞く。
「配達が朝から詰まってる」
リナは答える。
「親方、最近“灰白亭の粥を持ってけ”ってうるさいし」
「ありがたいけど言い方」
「本人に言って」
リナは笑った。
「じゃあ、また後で」
そう言って、通りへ出ていく。
恒一はその背中を見て、小さく息を吐いた。
「……見たいな」
「何を」
ミアが聞く。
「持ち帰った先」
「リナの朝?」
「うん」
ミアは少しだけ目を丸くした。
「見てどうするの」
「どう食われてるか知りたい」
「……」
「店で出すのと、持ち帰りで渡すのは違う」
「それはそうね」
「その先でどう残るか分かれば、もっと調整できる」
ミアは少しだけ考えてから、あっさり言った。
「じゃあ行けばいいじゃない」
「今?」
「配達ついでなら、そんなに変じゃないでしょ」
「いや、仕事中の人間を覗くみたいだろ」
「市場見てる人が今さら」
その返しに、恒一は少しだけ笑った。
たしかに今さらだ。
朝食の流れが一段落したあと、二人は通りへ出た。
リナは市場の裏手、布屋が並ぶ細い道で見つかった。
両腕に布を抱え、足早に行き来している。
「早いわね」
ミアが声をかける。
「うわ、びっくりした」
リナが振り向く。
「どうしたの?」
「ちょっと見に来た」
「何を?」
「粥のその後」
恒一が言う。
リナは一瞬きょとんとして、それから笑った。
「変な料理人」
「知ってる」
ミアが言う。
ちょうどその時、布屋の奥から男の声がした。
「リナ! 次の荷!」
「はーい!」
リナは返事をしてから、小さく言う。
「見るなら今」
「今?」
「親方、ちょうど食べるから」
店の裏手には、小さな木箱が並べられていた。
その一つを机代わりにして、太った中年男が壺の蓋を開ける。
布屋の親方だろう。
黒麦粥の湯気はもうだいぶ落ちている。
でも、冷めきってはいない。
親方は木匙で大きくすくって、一口食べた。
「……うん」
それだけ言った。
「うん?」
ミアが小さく繰り返す。
「いい“うん”よ」
リナが言う。
「毎朝その顔してる」
親方は二口、三口と続けたあと、やっと口を開く。
「朝に固いもん噛まずに済むの、ありがてぇんだよな」
「……」
「でも粥だけみたいに軽くもねぇ」
「……」
「腹に残る」
その言い方は、店で食べる客の言葉と少し違っていた。
“うまい”ではない。
“助かる”に近い。
「ねえ」
リナが小声で言う。
「これ、前はいつも屋台の固いのだったの」
「うん」
「急いで食べて、昼前に腹減って機嫌悪くなってた」
「……」
「今はそれが減った」
ミアは、それを黙って見ていた。
こういう効き方もあるのか、と思う。
宿の中では見えない種類の“効く”だ。
「……」
親方はまた一口食べて、ようやくこちらを見た。
「あ?」
「灰白亭の人」
リナが言う。
「おう」
親方はあっさり頷いた。
「いいもん作るな」
それだけで、十分だった。
恒一は小さく頭を下げた。
店で食う客の評価とはまた違う。
これは、生活に入った飯の評価だ。
昼前、今度はドノヴァンの現場へ寄った。
木材の匂い。
乾いた土。
打ちつける音。
休憩に入った職人たちが、それぞれ木箱や壁際に腰を下ろしている。
ペトルが先に気づいた。
「あ」
「どうも」
ミアが言う。
「なんで来たんですか」
「ちょっと」
恒一が答える。
「昼前の顔見に」
「変な料理人」
ペトルが言う。
「それ、今日二回目だな」
恒一が少し笑う。
ドノヴァンは壁際で水を飲んでいた。
こちらを見ると、少しだけ顎を上げる。
「どうだ」
恒一が聞く。
「何が」
ドノヴァンが返す。
「朝の粥」
ドノヴァンは少しだけ考えた。
「前より、昼の手が重くならん」
短い。
でも、かなり強い言葉だった。
「重くならない?」
ミアが聞く。
「昔はよ」
ドノヴァンが言う。
「朝に固ぇもん食うと、腹で止まる」
「……」
「でも軽いだけの汁じゃ、昼前に切れる」
「……」
「お前んとこのは、その間だ」
「……」
「働くにはちょうどいい」
ペトルも頷く。
「親方、最近昼の機嫌がちょっとマシなんです」
「おい」
「いや本当じゃないですか」
「うるせぇ」
現場に、少しだけ笑いが落ちる。
ミアは、その空気を受けながら小さく息を吐いた。
朝の粥は、ただ売れているだけじゃない。
人の一日を少し変えている。
それが、店の外でこうして見えるのは大きかった。
「……ねえ」
ミアが言う。
「何だ」
「これ、ちょっとすごくない?」
「かなりな」
恒一が答える。
「だよね」
ミアは現場を見回した。
「宿で出した飯が、街の昼まで効いてる」
「うん」
「それって、思ったより遠い」
「うん」
「湯気って、ほんとに届くのね」
その言い方は、かなりよかった。
鍋の湯気は、食堂の天井で消えるわけじゃない。
壺に入って、仕事場に行って、人の腹に落ちて、一日の形を少し変える。
それは、宿の中だけでは見えない届き方だった。
灰白亭へ戻る道すがら、ミアは帳面を開いた。
しばらく歩きながら考えて、それから書く。
朝の粥は、宿の外で効く
「短いな」
恒一が言う。
「今日はこれでいい」
ミアが答える。
「今の感じ、これが一番近い」
「……」
「“うまい”より、効く」
「そうだな」
その言葉は、この宿の今にとてもよく合っていた。
灰白亭の飯は、豪華でも派手でもない。
でも、生活に入る。
旅人の記憶にも、職人の昼にも、布屋の朝にも、少しずつ効く。
「ねえ」
ミアが言う。
「何だ」
「これ、宿としてかなり強くない?」
「強いな」
恒一は頷いた。
「朝に戻ってきてもらって」
「うん」
「持ち帰られて」
「うん」
「外でも効く」
「うん」
「欲張りすぎ?」
「宿なんだから、いいんじゃないか」
その返しに、ミアは少しだけ笑った。
朝の鍋は、もう食堂の中だけのものではない。
灰白亭は、知らないうちに街の暮らしへ少しずつ入り込み始めていた。




