【第37話】 クルトの提案、宿の返事
クルトが再び灰白亭へ現れたのは、その三日後の昼だった。
朝の鍋は終わっている。
持ち帰りの壺も出切り、食堂には昼の静かな光が差していた。
ミアは帳場で壺の返却を数えていた。
恒一は厨房で、苦香根の下茹でをしている。
そこへ、軽い足音と控えめな咳払い。
「お邪魔しても?」
ミアが顔を上げる。
クルトだった。
前と同じ、地味で質のいい服。
同じ笑顔。
でも、今日は前より少しだけ“用件がある顔”をしていた。
「……いらっしゃいませ」
ミアが言う。
「食事なら、軽いものは出せます」
「今日はそちらではなく」
クルトはやわらかく答える。
「少し、お話を」
ミアはそれを聞いて、ほんの少しだけ目を細めた。
「宿の人に?」
「ええ」
「じゃあ宿の返事になりますけど」
「もちろんです」
恒一も、厨房の奥からそのやり取りを聞いていた。
来ると思っていた。
ただ、思っていたより少し早かった。
「座る?」
ミアが聞く。
「では」
クルトは食堂の隅の席へ腰を下ろした。
前に来た時のような、“たまたま通りかかった商人”の顔ではない。
今日は、条件を持ってきた側の顔だ。
ミアは帳場の上の帳面を閉じて、席へ向かった。
恒一も手を拭いて、その少し後ろに立つ。
「それで」
ミアが言う。
「今日はどういうお話?」
クルトは一度だけ食堂を見回した。
磨かれた机。
壺の並び。
黒板。
厨房から残る朝の匂い。
その全部を見たうえで、口を開く。
「率直に言います」
「どうぞ」
「灰白亭は、今後もっと客が増えると思います」
「……」
「朝の粥も、夜の皿も、もう市場では話になっている」
「そうね」
「なら、いずれ仕入れの揺れが鍋に響く」
「……」
「だから、うちがそこを支えられます」
ミアは何も言わなかった。
ただ、続きを促すように少しだけ顎を引く。
「黒麦」
クルトが指を一本立てる。
「豆」
「……」
「乾燥菜」
「……」
「保存の利く塩漬け」
「……」
「それらをある程度まとまった形で安定して回せる」
たしかに悪い話には聞こえない。
市場の都合で毎朝揺れるより、ずっと楽になる可能性がある。
しかも灰白亭はいま、朝の鍋を守ることに一番神経を使っている。
「代わりに?」
ミアが聞いた。
クルトは少しだけ笑う。
「話が早い」
「商売なので」
「その通りです」
クルトは言う。
「代わりに、仕入れは優先的にうちを通してほしい」
「……」
「全部でなくてもいい」
「……」
「でも、主な乾物と保存食は、こちらで押さえたい」
そこで、恒一は小さく息を吐いた。
やはりそう来るか、と思う。
楽になる。
でも、その分だけ鍋の首根っこを握られる。
ミアも、それはすぐ分かったらしい。
「ねえ」
彼女が言う。
「何ですか」
「それって」
「ええ」
「うちの鍋の半分をあなたの手に預けるってことよね」
クルトは一拍置いてから答えた。
「言い方としては、そうなります」
「……」
「ただし、悪いようにはしません」
「そうでしょうね」
ミアは言う。
「悪い顔してる人は、最初からそう言わないもの」
クルトは少しだけ笑った。
「厳しいですね」
「宿の人なので」
その返しは、もうほとんど迷いがなかった。
恒一は、それを横で聞いていた。
前なら、こういう場面でミアはもっと感情的に反発していたかもしれない。
あるいは逆に、便利さへ引っ張られていたかもしれない。
今は違う。
ちゃんと鍋の先を見ている。
「恒一」
ミアが言う。
「何だ」
「あなたはどう思う」
クルトが、そこで初めて恒一を正面から見た。
前回より、ちゃんと“鍋の人間”として見ている視線だった。
「条件自体は悪くない」
恒一が言う。
「……」
「でも今の灰白亭には早い」
「早い?」
クルトが聞く。
「うん」
「どうして」
「まだ、自分たちで回せる範囲を測り切ってない」
「……」
「そこを飛ばして楽な方へ行くと、たぶん宿の方が先に鈍る」
クルトは少しだけ目を細めた。
「鈍る、ですか」
「鍋も、買い方も」
恒一が答える。
「いま灰白亭は、何をどこまで自分で持つかを覚えてる最中だ」
「……」
「そこを人に預けるのは、まだ早い」
ミアはその言葉を聞いて、ゆっくり頷いた。
「うん」
「……」
「今のうち、たぶん“便利”に寄りかかるとだめになる」
「……」
「だって、まだ宿の骨が固まりきってないもの」
その言い方はよかった。
骨。
たしかにそうだ。
灰白亭は立ち始めている。
でも、まだ骨組みを組んでいる途中だ。
その時に外から重いものを吊るすと、形が歪む。
クルトは、その言葉をしばらく黙って受け止めた。
そして、小さく笑った。
「なるほど」
「……」
「前より、ちゃんと断るようになりましたね」
「断ってるわけじゃない」
ミアが言う。
「今はまだ、受けないだけ」
「違いは?」
「大きいわよ」
ミアは即答した。
「いずれ必要になるかもしれない。でも、今じゃない」
「……」
「その順番をうちで決めたいの」
クルトは、そこで初めて本当に納得したような顔をした。
「それなら」
彼は言う。
「今の返事としては十分です」
ミアが少しだけ目を細める。
「怒らないの?」
「怒る理由がありません」
「でも断られた」
「断られたわけではないのでしょう?」
クルトは少しだけ笑った。
「今はまだ受けないだけ、ですよね」
その返しに、ミアも少しだけ笑った。
「そういうこと」
静かなやり取りだった。
でも、ここで決まった線引きはかなり大きい。
灰白亭は何でも抱え込む宿ではない。
かといって、何もかも拒む宿でもない。
今じゃないものを今じゃないと言える宿だ。
クルトは立ち上がる。
「では、また時期を見て」
「ええ」
ミアが答える。
「その時に、まだ必要だと思ったら」
「声をかけてください」
「そうする」
クルトが扉を開ける。
そこで、ふと振り返った。
「一つだけ」
「何?」
ミアが聞く。
「灰白亭さんは」
クルトは言う。
「“守るために広げない”宿ではなく、“守るために広げる順番を選ぶ”宿なんですね」
その言葉は、かなり正確だった。
ミアは一瞬だけ驚いて、それから頷いた。
「そうかもね」
クルトが去る。
食堂に静けさが戻る。
少ししてから、ミアが帳場へ戻り、帳面を開いた。
しばらく迷ってから、一行書く。
便利でも、今じゃないものがある
恒一が、それを横から見て言う。
「いいな」
「ほんと?」
「かなり」
「最近ほんとにそればっかりね」
「便利だからな」
ミアは少しだけ笑った。
「でも、今日はちょっとわかった」
「何が」
「断るって、閉じることじゃないのね」
「……」
「順番を守ることなんだ」
「そうだな」
その理解は、かなり宿の人らしかった。
宿は何でも受ければいいわけじゃない。
客も、食材も、話も、全部“今の灰白亭に合うか”を見て受ける。
その線引きが、宿の骨を守るのだ。
食堂には、昼の光がまだ静かに差していた。
鍋は空だが、匂いは残っている。
灰白亭は今日、また一つだけ
自分のやり方を守る宿
になった。




