【第36話】見つかった宿の朝
その朝、灰白亭の食堂には、少しだけ見慣れない顔があった。
鍋はいつも通りに火へかかっている。
黒麦がふくらみ、豆がほどけ、鳥脂の匂いが静かに立つ。
ミアは器を並べ、持ち帰り用の壺を壁際へ寄せていた。
やることは、昨日までとほとんど同じだ。
でも、店の空気は少し違う。
「……増えた」
ミアが小さく言う。
「何が」
恒一が聞く。
「知らない顔」
恒一が扉の方を見る。
いつもの席にはガドがいる。
その隣にドノヴァンとペトル。
壺を待っているのはリナ。
そこへ、見覚えのない男が一人、少しだけ遠慮した様子で立っていた。
荷を持っているわけでもない。
市場へ出る前の街の人間らしい。
「……あの」
男が言う。
「ここ、朝の粥の宿で合ってますか」
ミアが、ほんの一瞬だけ止まる。
その問い方が、もう前と違った。
“何か食える店か”ではなく、
“ここがあの宿か”と確かめに来ている。
「合ってるわ」
ミアが答える。
「食べる?」
「はい」
男は少しだけ安心したように席へ着いた。
「……ねえ」
ミアが小声で言う。
「何だ」
「ちょっと緊張する」
「今さらか」
「今さらよ」
ミアは言う。
「だって、知って来る人って、初めてだもの」
それはたしかにそうだった。
今までは、
匂いで止まる。
口コミで来る。
たまたま寄る。
そういう客が多かった。
でも今朝の男は違う。
“朝の粥の宿” という言葉を先に知って来ている。
それは嬉しい。
でも、少し怖くもある。
期待が先に入ってくるからだ。
その時、ガドが器を持ち上げて言った。
「大丈夫だろ」
「何が」
ミアが睨む。
「この宿、朝はもう外してねぇし」
「……」
「候補のくせに、えらそう」
「候補だからこそ毎日見てるんだよ」
ドノヴァンが低く言う。
「そこは少し合ってる」
「親方!」
ガドが勢いよく振り向く。
食堂に笑いが落ちる。
その小さな笑いで、ミアの肩の力が少しだけ抜けた。
こういう時、常連の顔ぶれは強い。
宿の空気を店の側だけじゃなく客の側からも支えてくれる。
「はい」
ミアが新しい男の前へ器を置く。
「どうぞ」
男は湯気を見てから、慎重にひと口食べた。
それから少しだけ目を見開く。
「……あ、ほんとだ」
「何が?」
リナが聞く。
「腹に落ちる」
男が言う。
「変な言い方だけど」
ガドが即座に頷いた。
「だろ?」
「なんであんたが誇らしげなのよ」
ミアが言う。
「常連候補だからな」
「まだ候補ね」
そのやり取りに、今度は新しい男も少しだけ笑った。
恒一は鍋を見ながら、その空気を静かに受け取っていた。
灰白亭は今、
鍋の味だけで人を残しているんじゃない。
知って来た客をちゃんと迎えられる空気
も少しずつ持ち始めている。
「……ねえ」
ミアが言う。
「何だ」
「これ、うれしいね」
「うん」
「でも、ちょっと面倒」
「それも分かる」
扉がまた開く。
今度は女が一人。
こちらも見覚えはない。
だが入ってくる前に、看板を見てから扉へ手をかけた。
「持ち帰り、まだありますか」
そう聞いた。
リナが、そこで小さく笑う。
「増えたね」
「何が」
ミアが聞く。
「“知ってる前提”の人」
たしかにそうだった。
朝粥あります。
持ち帰りできます。
その二行の看板が、ようやくただの板ではなくなり始めている。
「あるわ」
ミアが答える。
「何人分?」
「二人分で」
「壺は?」
「持ってます」
女が出したのは、前にリナが使っていたのと同じ型の壺だった。
つまり、誰かから話を聞いて、持ち帰り前提で来ている。
ミアは少しだけ目を丸くした。
「……そこまで?」
「ここ、最近そういう宿でしょ?」
女が言う。
「朝に寄ると助かるって聞いたから」
その言葉は、かなりよかった。
うまい より、少し地味だ。
でも、宿としてはずっと強い。
助かる。
それは生活に入った言葉だからだ。
女が帰ったあと、ミアは壺の布を結びながら言った。
「ねえ」
「何だ」
恒一が聞く。
「見つかるって、こういうことなのね」
「どういう意味だ」
「前は、こっちが客を待ってた」
「うん」
「今は、向こうが“ここでいいか”って見に来る」
「……」
「それって、ちょっと怖い」
「うん」
「でも、かなりうれしい」
その言い方は、とても今の灰白亭らしかった。
全部が順調なわけじゃない。
仕入れはまだ揺れるし、苦香根だって市場で見られ始めている。
それでも、宿としては確実に前へ進んでいる。
その時、サーシャが食堂へ下りてきた。
今日は再訪ではなく、久しぶりの宿泊だった。
前より荷は軽く、顔つきも少しだけやわらかい。
「おはようございます」
ミアが言う。
「おはよう」
サーシャは席へ着き、食堂を一度見回した。
「……増えましたね」
「何が?」
ミアが聞く。
「“知って来る人”」
やっぱり分かるのか、とミアは思った。
この旅人は、宿の温度の変化をよく見ている。
「どう見える?」
恒一が聞く。
「前より宿らしいです」
サーシャが答える。
「良い意味でも、面倒な意味でも」
「面倒な意味?」
ミアが聞く。
「期待されるので」
サーシャは静かに言う。
「知られない宿は、比べられません」
「……」
「でも、知られた宿は“前よりどうか”を見られる」
その言葉は、かなり重かった。
前より良いか。
前と同じか。
悪くなっていないか。
知って来る人が増えるということは、それを毎回問われるということでもある。
「……ねえ」
ミアが言う。
「何だ」
「宿って、見つかると大変なのね」
「かなりな」
恒一が答える。
「でも」
ミアは鍋の湯気を見る。
「前よりは、こっちの方がいい」
「そうだな」
知って来てもらえる。
戻って来てもらえる。
その代わり、ちゃんと続けなきゃいけない。
それは面倒だ。
でも、宿としてはずっとまっとうな面倒だった。
朝の流れが一段落した頃、ミアは帳場の横へ小さく書き足した。
知って来る人をがっかりさせない
「長いわね」
恒一が言う。
「今はこれでいいの」
ミアが返す。
その字は少し大きかった。
でも、そのくらいでちょうどよかった。
灰白亭は今、ようやく“知られている宿”になり始めたのだから。




