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異世界で潰れかけの宿を任された俺、 朝粥と売れ残り食材で街の食卓を変えていく 〜はずれスキル『食材帳』の料理人〜  作者: 青い海の人


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【第33話】 一軒の宿の限界

市場を歩いていると、時々、どうしようもなく大きいものに気づくことがある。


 灰白亭の鍋は、一度にせいぜい十数人分だ。


 朝の粥も、

 持ち帰りの壺も、

 夜の皿も。


 全部合わせても、一日に触れられる人の数は限られている。


 それは、前から分かっていたはずだった。


 けれど、その日ミアは、初めてそれを数の感覚として掴んだ。


「……これ」

 彼女が言う。


「何だ」

 恒一が聞く。


 二人は市場の中央通りの端に立っていた。


 昼を過ぎた市場は、朝よりも人が多い。

 売る人、買う人、荷を運ぶ人、ただ通り抜ける人。

 石畳の道は狭く見えるのに、流れる人数はかなり多い。


「一日で」

 ミアが言った。

「この市場を通る人、何人くらいだと思う?」


「……百じゃ効かないな」

 恒一が言う。


「うん」


「たぶん何百」


「そうよね」


 ミアは腕を組んだ。


「灰白亭の朝食」

「うん」

「多い日で何人?」

「二十くらい」

「そう」

「……」

「夜の皿は?」

「十いくかどうか」

「そうよね」


 つまり、こういうことだった。


 市場の流れは数百。

 灰白亭の鍋は数十。


 単純に比べれば、十分の一以下だ。


 いくら宿の飯を良くしても、市場の食べ方がそのままなら、街の食卓全体はほとんど変わらない。


「……ねえ」

 ミアが言った。

「何だ」

「私たち」

「うん」

「ちょっと勘違いしてたかも」


 その言葉は、軽くなかった。


「勘違い?」

 恒一が聞く。


「うん」


 ミアは市場の流れを見た。


 粉屋の屋台。

 魚の串。

 濃いタレの匂い。

 急いで食べる労働者。


 その向こうに広がる無数の食材の山。


「灰白亭が頑張れば」

 彼女は言う。

「この街の食べ方が少し変わるんじゃないかって」

「……」

「思ってた」

「うん」

「でも」

 ミアは小さく笑った。

「全然足りない」


 その言い方は、諦めではなかった。

 ただ、正確だった。


 恒一は黙っていた。


 彼も同じことを感じていたからだ。


 苦香根は変えられた。

 夜の皿は旅人に残った。

 朝の粥は常連を作った。


 でも市場の流れは、ほとんどそのままだ。


 豆葉の失敗の時にも感じた。

 出口を見つけられる食材は、そう多くない。


「一軒の宿って」

 ミアが言う。

「思ったより小さいね」


「そうだな」


「街を変えるとか言ったけど」

「うん」

「ちょっと大きすぎたかも」


 その時だった。


「やっと気づいたか」


 後ろから声がした。


 振り向くと、ベルノだった。


 今日は屋台の仕込みの合間らしく、片手に魚籠を持っている。

 相変わらず気楽そうな顔だが、目だけはちゃんと二人を見ていた。


「聞いてたの?」

 ミアが言う。


「聞こえた」

 ベルノは肩をすくめる。

「市場の真ん中で哲学始めるなよ」


「……哲学?」


「今のは哲学だろ」


「そんなつもりじゃない」


「でも、いいとこまで行ってる」


 ベルノは市場をぐるりと見回した。


「この市場」

 彼が言う。

「何人食ってると思う?」


「……」


「朝だけで、何百だ」

「うん」

「昼も夜も含めたら、もっと多い」

「そうね」


 ベルノは少しだけ笑った。


「灰白亭の鍋は?」

「二十」

 ミアが言う。

「夜は十」

「だろ?」


 彼は、魚籠を石畳へ軽く置いた。


「だからな」

 ベルノは言う。

「一軒で全部変えるとか、最初から無理なんだよ」


 ミアは黙った。


 悔しいというより、

 やっぱりそうか

 という顔だった。


「でもな」

 ベルノが続ける。

「意味がないわけじゃねぇ」


「……」


「朝の粥、食ったやつは覚えてる」

「……」

「苦香根の皿、食った旅人は話してる」

「……」

「つまり」

 彼は指を一本立てた。

「流れの一部は、確実に変わってる」


 ミアが少し顔を上げる。


「一部」


「一部でいいんだよ」

 ベルノは言う。

「市場全部を変える必要はねぇ」

「……」

「変えられるとこだけ変えろ」


 その言葉は、驚くほど簡単だった。


 でも、腹には落ちた。


「ねえ、恒一」

 ミアが言う。


「何だ」


「灰白亭ってさ」

「うん」

「市場全部を変える宿じゃないよね」


「そうだな」


「でも」

「でも?」


「この街の食べ方に、出口を一個ずつ増やす宿にはなれる」


 恒一は、その言葉に頷いた。


「それなら」

 彼が言う。

「一軒でも意味がある」


「うん」


「かなり」


 ミアは小さく笑った。


「それなら、まだ続けられる」


 市場の灰色は、まだ広かった。


 でも、その灰色の中に、ほんの少しだけ色が差し始めている。


 灰白亭の湯気は、まだ小さい。

 けれど、その湯気を覚える人は、確実に増えていた。


 全部は変えられない。

 でも、一つずつなら出口を作れる。


 それは、今の灰白亭にとって十分に強い答えだった。

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